第7話 狭間
- 2 日前
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廃墟と化した旧帝都ホテルの白い壁には雨垂れが黒く染み込み、夜更けの闇も相俟って、その姿を陰鬱に変貌させている。窮屈な一階の入り口からは、亀裂の入った木製のフロントデスクの側面と、その前方に狭いラウンジの面影が残っているのが見えた。古びて荒れた、ラウンジだった場所の奥には、上階層へと繋がる階段が続いている。エレベーターが使えない分、必然的に階段を使わざるを得なかったのだろう。件の工作員のものか、はたまた悪戯半分に入った不埒者の類かはわからないが、通路に備え付けられていた小さな小窓から割れ落ちたガラスが踏み荒らされ、粉々になっている。
参號はそんなホテルの入り口の正面に聳えた古いビルの陰で、一方弐號はホテルのフロント側に開いていた裏口付近の茂みで息を潜めていた。弐號よりも、参號からの方が旧帝都ホテルの屋内の様子がよく見える。しかし、弐號は参號を訝しんでいた。定期的に連絡を取り合っているものの、参號からの応答はやけに静かで淡白だ。弐號は、参號が生活の中で時折大雑把な一面を見せることを知っている。だからこそ弐號は、参號がそのだらしのない悪癖を任務の場にでも出しはしないかと神経を尖らせ、口煩くなっていたのだった。
「何やってる? 参號」
『写経だよ。閣下に、手隙の時間にやれと言われたんだ。俺の字は、ミミズみてえだとさ』
「見張もきちんとやれよ。僕だけに任せて、どうする。……はあ、だから、貴様と組むのは嫌なんだ。馬鹿だから」
『馬鹿で悪かったなクソったれ。大体てめえは――』
参號は不機嫌そうに口汚く罵ろうとして、やめる。そして、すん、と鼻を鳴らしてあたりの匂いを確かめるなり、言った。その声は、微かに高揚している。これから生じるであろう戦乱に対する期待と、熱狂を含んでいた。
『奴さんがおいでなすった。約五分後、入室だ』
弐號は参號のそんな声に舌打ちをすると、狙撃班に向けて無線を飛ばした。弐號は参號に対しもう少し早い段階での察知を望んでいたのだが、それを外れて幾許かしか余裕の無い時間を返してきたものだから、些か焦りを感じたようだった。長い付き合い故に参號を信頼してはいるものの、如何せん気質が合わないもので、彼に対しもどかしさを覚えずにはいられないらしい。涼しげなよく通る優男の声が、狙撃班に向けて言い放つ。
「……狙撃班、聞こえたね? 標的五名接近中。配置につくように」
そんな弐號の苛立ちを受け取って、狙撃班――壱號と日向は、苦笑いを浮かべながら返答する。二人からすれば、弐號が参號の連絡に苛立ちを覚えている理由など、普段から彼らの口論を聞かされている手前、明らかであったのだ。二人はそれぞれ、弐號に安堵を与えてやろうと少しばかり悠長な様子で応えてやる。
『聞こえた。壱號、配置についてる』
『日むか……陸號も、配置についてますよ』
二人の応答を確認すると、弐號は彼らの思惑に気付いたのであろう――軽い羞恥を抱えながらも頷き、短く返して無線を切った。
「了。狙撃班はそのまま待機。こちらは標的の入室を確認次第突入する」
「了」
狙撃班の応答を得て幾許かしないうちに、参號と弐號は、標的たる"烈華会"の五名が旧帝都ホテルの建屋内に入ったことを察知する。先駆けてそれとなく彼らに声をかけたのは弐號だった。穏健な警備員を装い、友好的な立場を示すかのように、何も持っていない片手を上げている。ほぼ丸腰――そう捉えられる程に、弐號は極めて無警戒であるように振る舞った。腰元に装備した、彼の時代錯誤な愛銃である南部大拳にさえ、烈華会の連中は気付いていない。彼らはただ、その時刻、そしてその場に自分たち以外の人間がいることに驚き、動揺しているのみだった。
「君たち、そこで何をしている?」
『!』
「ここは立ち入り禁止だよ」
弐號の優男然とした口ぶりに、工作員たちは顔を見合わせている。その言葉の意味がわからない、と言うわけでは無いようだが、彼らは顔を見合わせ、母国語で小さく耳打ちし合っていた。
『……警備員か』
『どうする』
『先日まではいなかった』
『落ち着け。俺の話に合わせろ。上手いこと切り抜ける――』
しかし、工作員達の話に、弐號が無慈悲に割って入る。先ほどまでの愛想の良い好青年めいた表情とは打って変わって、今では獣を目の前にした猛獣のように目をぎらつかせ、すぐにでも狩ってやろうとでもいいたげに、彼らの一挙手一投足を見逃さんとして、顔を寄せ合う彼らのその様子を視界に収めている。
「どう切り抜けるつもりかね? すまない、支那語は習得していてね」
『……』
駄目押しのような弐號の一言に、工作員たちは口籠るしかできないようであった。しかし、そのうち一人の男が前に出る。彼らの中でも隊長格なのであろうその男は頭が回るのか、流暢な日本語で弁明を始めた。
「すみません、正直に言います。僕たちはその、観光客で。日本の廃墟探訪をしたく、ここに来ていました」
だが、しおらしくそう言う男に鼻で笑いながら銃を突きつけたのは、表口から音も無く入ってきた参號であった。
「探訪のついでにナニする気だった? 火薬の匂いぷんぷんさせといて、よく言うよなァ」
「……あなた達こそ、何なのですか。日本の警備員さんたちはもっと――礼儀正しく、丁寧な方々な気がするのですが。あなた達からは、敵意しか感じません」
「うるせえ、ただの日雇い警備員だよ。大人しくお縄にかかんな」
「……」
参號の荒々しい態度に、弐號は危うく舌打ちしかける。それと同時に、弐號と参號が纏う殺気に、この二人がただの警備員では無いと気付いたのであろう烈華会の面々は即座に窓からの脱出を試みたのだが、弐號が素早く彼らの前方に回り阻んだことで失敗に終わった。最早戦闘は免れないことに覚悟を決めたのか、隊長格の男が懐から銃を抜き、弐號に向けて二、三発と発砲する。弾は、全弾命中した。したというのに――弐號の、全く動じないどころか痛がりもしない様子に男は息を飲み、冷や汗を流し、一言零すことしか出来ない。
「ば、化物か……!?」
一方弐號は、血を流しながらも硬直する五人組に迫りつつ、無線を通じて他の隊員を煽動していた。それは地獄を好む自分たちの為の、待ちに待った采配である。
「撃たれた――撃たれたよ、諸君。確かに銃を向けられた。撃たれた。抵抗を受けたよ、諸君」
流れていた血が止まり、ぐちぐちと肉の蠢く音が廃墟に響く。死喰兵の性質として、戦場の屍という屍を喰らい、凡ゆる死に適応し超越したその身は、並大抵の攻撃では倒れることはできない。だが、だからこそ彼らは歓喜に打ち震えることができた。死喰兵にとって、「攻撃を受けたということ」は即ち、「反撃をしても良いということ」を意味する。長いこと戦いに飢えていた死喰兵たちは、弐號のその采配に感極まり、思わず雄叫びを上げそうになるのを耐える程の激しい衝動に駆られた。
『そうか、撃たれたか――可哀想に。なら、俺も、撃つさ』
「おうおう、やっちまおう、食っちまおう! 尽忠報國! 尽忠報國だッ!」
壱號と参號が、大いに湧き上がる。飢えるに飢えた戦闘行為に、歓びの声を上げて引き金に指をかけた。だが、相手もただでやられるつもりはないのだろうか、はたまたこの化物たちを前に戦闘意欲を失ったのか、いずれにせよ焦りながらも生き延びるための選択を下す。烈華会の隊長格の男が声を張り上げ、古びたラウンジの奥にある階段へと隊員たちを向かわせる。弐號はそれを見てすぐさま後を追いながら、愉しむように工作員らを急きたてた。
『ッ! ――上だ! 上しかない』
『上だ! 上だ!』
「おや、上へ行くのかね。良いよ、行くが良いさ。こうなったら、楽しみを我々だけで独占するのはあまりに不憫だ」
階段を大急ぎで駆け上がる烈華会の五人組を、弐號と参號が追い立てる。弐號は階段を飛ばし飛ばしに駆け上がり、参號より先に彼らを追いながら、几帳面に無線で狙撃班達に連絡を取っていた。参號が烈華会の工作員らを狙って射撃を行うものの、精度が足りないのかなかなか当たらず、苛立っていた。
「狙撃班、聞こえるかい? 今参號と共に標的を追いやってる。屋上到着まであと少しかかる。参號が下手くそなのもあるが――彼らにはもう抵抗意思はないようだ。若山殿の希望もある。機会をやろうと思う」
『了解した』
『了解です』
壱號ら狙撃班の短い返しを最後に無線を切り、二人は獲物を追って駆ける。駆けながらも弐號は、苛立ったように参號に憎まれ口を叩いた。それは、自らも好むはずの戦闘行為を理性で御し、自分達を従える若山の希望を優先したことで生じた苛立ちの捌け口でもある。弐號は、参號というどこまでも本能に忠実で暴力的な狂犬めいた男を他山の石としていたところがあったため、自分は理性的であろうと努めていたのである。
「全く、貴様のせいだよ参號、口汚いせいだ。閣下に字だけじゃ無く、口も修正してもらえ!」
「てめえだって、撃たれて痛がりもしなかったじゃねえか。第一、何で俺が、支那人共に、敬語使わなくっちゃあならねえ!」
しかしながら、弐號も参號も互いに憎しみの目を向けてはいない。むしろ、愉快な遊びに興じているかのようだった。二人にとってこの戦闘行為は、そんなものなのだ。死にもしなければ痛みも無い、化物の域に足を踏み入れてしまっている、彼らにとっては。
***
「……」
一方その頃。
旧帝都ホテルの横に並ぶ建物を一棟挟んで聳え立つビルの屋上で、日向は無線越しに逃亡と追跡が始まっているのを確認し、九九式短小銃を構えていた。旧帝都ホテル前方に建つビルの屋上では、壱號が獲物達に狙いを定めている。『旭』において唯一無二とも言える程の狙撃能力を持つ彼である。本来なら日向はこの作戦に投入せず、地下で待機が妥当だ。故に、日向は自分がこの作戦に投入されたことの意味について、試されているのだと結論づけていた。そうせずにはいられない、と言っても過言ではなかった。自分がこの部隊で一番劣る存在だと自負しているからだ。だからこそ日向は気持ちが逸って、彼らに追いつこうとしていたのだった。その心意気からくる緊張が、彼女の手を震わせている。それを抑えるように、日向は深く深呼吸をして、銃を構え直す。
「ふう……」
日向は、この場において最も空に近い場所で、冷たい風が頬を撫ぜるのを感じていた。熱くなった頭を冷ますように、夜風は髪の中をくぐり抜けて、頭皮に触れる。その感覚にいくらか落ち着きを取り戻した彼女は、雑念を振り払い、改めて照準器を覗く。照準器越しに見通す狩場には、まだ獲物は現れていない。銃把を握る手に震えは無く、自分を追い詰める自分もいない。彼女はただ、敵を撃つことだけを考えることが出来た。
「調子はどうだ、日向」
だが、そんな時に音も無くやってきたのは、閣下だった。日向は突如として聞こえた彼の声に、息を呑む。冷たい空気が喉にひゅっと音を立てて入ってきたのに驚き、咽せそうになりながら後ろを振り返ると、折角振り払った雑念が再び舞い戻り、彼女は少しばかり動揺した。自身を試さんとしている張本人が目の前に現れたのだ。ばさばさと、裾の擦り切れた禍々しい外套を風に遊ばせ翻しながら佇む姿は、日向からすればいつ見ても魔王同然であり、畏敬の対象でもある。だが、その外見に違える彼の心も知っていたものだから、恐怖だけを抱くには至れなかった。それ以外の――もっと暖かく、親しみに近い――否、それ以上のものを彼女は抱いている。故に、軽口を叩くことも、口答えをすることも出来てしまう。日向は、「全くこの人は靴音で威圧してみたり、こうして暗殺者めいた動きをしてみたりと、兎角相手に恐怖を与えるのが大得意だ」と心の中で毒付きながらも、閣下に尋ねた。
「か、閣下。来るなんて一言も。地下におられるのではなかったのですか?」
「私が貴様の様子を見に来るのに、貴様の許可が必要なのか? いつからそんなに偉くなった」
「す、すみません。必要ございませんけれど、ただ、その。緊張しますよ、上官殿に直接腕を見られるんですよ?」
「何を緊張する必要がある。普段通りやれば良いだろう。それとも何か? 貴様は狙撃兵の分際で、気分次第で撃てなくなるのか」
「……い、いえ。そんなことはございません。撃ちます、どんな時でも」
「では、有言実行してみせろ日向。私に貴様の実力を示してみせろ」
閣下の言葉に応じるように、日向は再度照準器を覗き込む。その向こうで、丁度屋上に出てきた工作員五名と弐號、参號を捉えた。双方は距離をとって対峙している。その間は約十メートルといった程だ。
「さあ、お楽しみの時間がやってきたな日向。生憎彼奴等は誰一人として死んでいない。弐號と参號が殺す前に彼奴等が降伏すれば『勾留』。彼奴等が再度抵抗したならば、我々は正当防衛として彼奴等を『殺す』。連中はどう出るか? 貴様はどう出るか? 凶と出るか、吉と出るか? よく観察しろ日向、貴様の選択次第でもあるのだからな」
「私の選択……、……」
囃し立てるように、閣下は、伏射姿勢で銃を構えている日向を見下ろす。まるでこの状況を楽しんでいるかのような口ぶりに、日向はこの男が敵に対してはいかに邪悪で恐ろしく、酷薄なのかを呆れるほどに痛感した。その悪魔のような有り様に、導かれるようにして日向は無情に徹しながら、敵へと照準を定める。その時日向は、あることに気づいてしまった。――
(あの子。まだ、子供だ。……)
日向はその炯眼が祟ったのか、自分たちが今まさに手を下さんとしている工作員五人組のうち一名が、まだ十代程度の子供であることに気付いた。十代程度の子供が戦場に立たされ、國の為に手を汚し、その身と心を捨てることを強いられていることに気付いてしまった。自分たちにとって、そんなことがこの作戦に何の影響も与えないことを日向は理解している。しかし、日向にとってはそうやって単純に片付けられる話ではなかった。――
(軍人として、私はこれ以上私のような者が現れないことを願っている。それが今、このようにして。救済と慈悲の対象であるはずの子供を討たんとしている。なんて矛盾だろう。私は守りたい、救いたいと思う対象を殺そうとしている。私と同じ目に合わせようとしている。否、考え方を変えよう。今ここで引導を渡してやることこそが慈悲なのかもしれない。しかし――あの日の私は生きたかった。生きたかったから閣下に縋り、血の契りを以て今日まで生きている。私は今、あの空をも焼き尽くすような夜を越えて、生きる喜びに満ちている。あの連中と共に屋上まで逃げてきたあの子も、生にしがみ付く一心であるのなら。私がここで彼らを撃つことは、果たして正しいことなのだろうか。私は、後悔せずにいられるのだろうか。私は、どうすべきなのか。……)
日向の脳裏に過ぎったのは、かつての自分が見た景色であった。吹っ飛ばされた自分が、焼かれた家族が、兄が、学友が、焼き尽くされる悉くが鮮明に蘇る。それらは時を経て、子供とは守られるべき者だという彼女の思想を深め、鬼手仏心とした姿勢を築き上げる根本になった。彼女の脳には次々とあの時の苦しみや怒りが湧き上がり、冷静さを欠き始める。自分が子供に銃を向けている現実に、思わず冷や汗が流れる。脳内を絶え間なく巡るのは、自問自答である。――
(私は。私はあの日感じた苦痛を、あの子供に与えるの? でも、そうするのが仕事だ――撃てなければ、私は一生この隊のお荷物だ。しかし、自分の存在価値を示すためだけに、子供を撃つの? ……)
黙りこくり、硬直する日向の姿を確認した閣下は、目を細める。彼は日向の葛藤を見抜いていた。そして同時に、彼女を軍人として立たせている一つの信念が彼女の行動を制しているのだろうと慮り、急かすように声をかける。厳格で、敵に対しては一切の容赦もない苛烈さを見せるこの男は今、日向とは対極の位置に立っていた。人間を魔道へと導く悪魔の如く、彼はその奸邪を笑って受け容れ、身を伏せる日向の背後から、その大きな手を彼女の銃を構える手に添える。決して目を逸らすことをさせないように。自分の選択から逃れられないように。その躊躇からくる硬直を咎めるべく、彼女の手を銃に縫い止めようとして、閣下は日向の手を握り込んだ。
「どうした? 何を固まってるんだ日向。まさか、死喰兵ともあろう者が、子供がいるから撃てないなどと言い出すわけではあるまいな? だがまあ、今回はまだ猶予があるやもしれん。よく見ろ」
「……あ」
日向は、照準器越しに敵の様子を眺め直した。すると、敵である烈華会の五人組がある行動を取っているのが分かった。少年であろう一名を背にして囲むような陣形を取り、四人が両手を上げている。誰が見てもわかるそれは"降伏"の意を示すものだ。
「――こ、降伏しています。彼ら、降伏してます、閣下」
安堵し切った、喜びを含んだ日向の声に、閣下は思わず舌打ちをしたくなる。日向の、どこまでも人間で兵器になりきれない、甘ったれた思考が見え透いていたのである。日頃から『人であり、兵器であれ』と説いているというのに、まるでその言葉など身に染みてはいない様子に、閣下は惜しいような、呆れたような気すらしていた。「兵器になりきれないから撃つことを躊躇っていたというのにこの馬鹿、まるで分かっていない」と叱り出しそうになるのを抑えて、閣下は烈華会の連中の動向を静かに見つめる。まるで、まだ彼らが何かしてくるとでも言うかのように。
「……そうだな。子供を前に、殺傷沙汰にしたくないのだろう。お優しいことだ。まるで御伽話のような、素敵な話じゃあないか。支那からの侵略者は哀れだ。我々が憎む連中は、哀れな傀儡だった。若者の未来を憂いて決断し、国家からの支配を断った。素敵だ、まるで世にも素敵な悲喜劇の始まりだ。だが――現実とはそんな綺麗なものじゃあない。目を離すなよ日向、あの"子供"から」
「え……、――」
閣下の言葉が終わるか否かの瞬間に、動きを見せたのは烈華会であった。
大人四名に庇われているように見えた一人の少年が、そのうち一人の肩を乗り越えると同時に、捕縛しようと近づいた弐號と参號に向けて拳銃を向け、発砲したのだ。
「こ、子供が……撃った」
日向は言葉を失った。そして、思い直した。大人たちに庇われていたとはいえ、彼も烈華会の一員である。日本に来た理由も、その烈華会としての仕事のためだと言うことも理解できていた。出来ていたのだが、心の底ではそれを否定する自分がいたのだ。庇われ、守られている様子を見て、あの子供は非力で無害であると、撃たなくても良いなどと"お優しい"推論を下していた自分がいたのである。それがこの結果を招いたと実感し、彼女を強い後悔と躊躇が襲った。
そんな日向の心をも見抜いているのであろう、閣下は彼女に鋭く言葉を投げかけた。
「だからなんだ、何をもたもたしている。連中は工作員だ。侵略者共だ。愛すべき、守るべき我が國を犯そうとしている國盗りだ。殺す理由としては十分過ぎるぞ。撃て」
「は、はい……ッ!」
日向が躊躇している隙に鋭い銃声が夜空に響き、少年の工作員を始めとした三名がばたばたと倒れていく。無線が入ると、壱號の朴訥な声が聞こえ、日向は唇を結んだ。壱號が三名をも始末したというのは、自明の理であった。どんなに離れていようが数秒も経たずに立て続けに複数人を確実に仕留めてみせる"早撃ち"は、彼の専売特許だったからだ。
『三名、こっちでやった』
あとはわかるな、という無線越しの壱號の言葉に、日向は返答を寄越さず瞬時に残りの工作員たちに照準を合わせる。烈華会の工作員達は未だに抵抗を続けている。そのうち一人が懐に手を突っ込んだのを、日向は見逃さなかった。躊躇うことなく頭を撃ち抜けば、不審な動きを見せたその男は糸の切れた人形のように前方へ倒れていく。投げ出された手からは、ピンの抜かれていない手榴弾が転がり、参號の爪先の手前で動きを止めた。残った最後の一人は、弐號が撃ち殺したらしい。照準器越しに弐號が微笑みを浮かべながら手を振ってくるのを見て、日向は息をついて、無線で短く「完了しました」と告げる。
「腑抜けに救われたな、参號も。しばらくは貴様のことも嗤えんだろう。腑抜けの日向、撃てずの日向と呼べるのは、私と壱號だけだ。貴様も運が良かったな」
日向のそばで一部始終を眺めていた閣下が、特に慌てることもなく呟く。その言葉には、手榴弾程度では死なない体を持ってしまった、化物であるが故の悠長さがあった。同時にそれは、『この程度で死ぬようならここにいない』という、自身の部下に対する絶対的な信頼さえも窺わせる。閣下は、今夜この場において、恐らく誰一人として"旭"に欠員が出ることなどあり得ないだろうと踏んでいたのだ。そしてその予想は的中していた。
そんな落ち着き払った様子の閣下に、日向は不甲斐無さげにしつつも抗弁する。しかし、取るに足らないといった調子で一蹴されてしまった。日向は最早ぐうの音も出なかった。
「一言余計です……」
「余計なものか。事実だ、腑抜け。撃てんかった分際で」
「う」
「項垂れている時間は無い。死体の回収後、撤収だ」
「ぐえっ」
日向のさらなる反論を許さないように、閣下は無遠慮に彼女を小脇に抱える。そして数歩下がって助走をつけると、ビルからビルへとその屋上へ跳躍して移り、旧帝都ホテルの屋上へと向かった。ただの人間には大凡不可能とも思えるその行為に、日向は最早悲鳴の一つも上げはしない。彼がこうして化物めいた行為をやってのけることを、珍しいとも恐ろしいとも思っていないのだ。ある程度慣れていたのである。
閣下は屋上に着くと日向を降ろし、その場に集まった壱號と弐號、参號の元へ歩み寄った。彼らの足元には烈華会の工作員らの遺体がある。閣下は、まるで値踏みするかのようにそれらを眺めながら、部下達に労いの言葉をかけた。
「御苦労」
「! 閣下。来ておられましたか」
「ああ。腑抜けの様子が気になってな」
逸早く反応したのは弐號であった。予想外だという様子の彼に、閣下は日向を嘲るように一瞥して応える。日向は閣下のその態度や罵倒に悄然としながら、自らの覚悟の足りなさが隊に危険を及ぼしたのだと自省し、壱號らに詫びた。
「あ、あの。すみません。私の対応が遅く……」
「問題無い。俺が補えた」
しかし、壱號や弐號にとっては想像の範疇だったのか、はたまた彼ら二人が日向を常日頃から妹のように可愛がっていることもあるのか、自らの失敗に落ち込んでいる様子の彼女に、辛く当たることはしなかった。参號に至っては、彼女が敵を撃ちそびれたということにすら気付いておらず、寧ろ上手くやったものだとばかり思い込んでいる。もしも参號に事の真相が知れていたのだとしたら、いの一番に日向を揶揄い、揚げ足を取り、泣きっ面に蜂と言わんばかりの低俗な雑言を浴びせていただろう。そして幼稚な言い合いの果てに、二人して手を上げ足で蹴り合うようにまでなるのは日常茶飯事だった。
「あ? 何だよ、上手いことやってくれたじゃあねえか、今回は」
「ええと……」
「腑抜けを慰めるための時間など取っていない。撤収するぞ」
「? あいよ」
閣下はそんな参號と日向のやり取りが起こらないよう取り計らいながら、しかし日向に決して甘い顔をするわけでもなくぴしゃりと言い放つと、足元に転がる烈華会の工作員達の遺体の中でも一番大柄な男を掴んで、屋上から飛び降りていった。
「何か反省点でもあったのだろうけれど、ひとまずは帰ってからにしよう、日向。体が冷えてしまうよ」
「は、はい……」
何かを察したのか、依然としてしょぼくれた様子の日向の肩を弐號が叩く。
そして、それぞれが工作員達の遺体を片手に屋上を飛び降りて撤収していくその後ろに日向も続いていった。日向が任されたのは、一番身長の低い男であって、自分が撃ちそびれた子供ではない。その子供を運んだのは壱號で、日向はそんな壱號の配慮に感謝する反面、自分がいつまで経ってもこうして頼りない身分であることが、悔しくてたまらなかった。


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