第6話 溽熱の夜
- 旧川 禅

- 2025年12月16日
- 読了時間: 11分
更新日:2025年12月21日
坑道の夜に深浅の概念は無く、暁闇すら存在しない。大衆が日を拝み、その暮れるのを見届け終えてはため息を零すことの容易い坑道の外の世界では、とっくに夜の寂寥が訪れ、深々とした暗黒の幕で空を覆い尽くし、所々に星明かりを纏い着飾っている。街明かりは疎らになり、橙色の街灯の下を紙吹雪のように蛾が舞い、山林に面した道路は静まり返り、嵯峨たる木々の隙間からは青葉木菟の鳴き声が聞こえている。
そんな時分であるのだが、死喰兵たちはそのようなことなど知らぬように、一切の疲れも見せず、地の底で活動し続けていた。坑道の暗くもなく、明るくもない空間には、広い歪なアーチ状の天井が奥へ奥へと伸びている。天井の頂部には白熱灯が取り付けられ、坑道最奥の闇を追うように一定間隔で配置されたそれが、白い光を放って、辺りを冷たく照らす。照らされた壁に這う無機質な鉄管が鈍い光を返す下には、生活区画特有の共有部の扉が点々と並んだ。そんな、同じような景色の続く、坑道とは名ばかりの巨大な地下壕のような有様の中に、幾つもの硬い靴の音が響いていたが、ある場所でふいに止んだ。
『司令官室』と、扉の脇に掛けられた室名札にはそう書かれている。壱號らを率いていた肆號は、その前に立つなり、ふうと息をつき身なりを整えた。この部屋の主はかの閣下であるからだ。
肆號は、決して閣下の気骨稜々たる性格を恐れているわけではない。寧ろ彼を心酔し、慕っているからこそ、その腹の内が潔白であること、そしてその欽仰に一切の欺瞞も無いことを見せたいと、常日頃から考えている。それが出来なければ、閣下の側に侍ることすら烏滸がましいと感じている。あの鋭い眼に睨まれようと、あの分厚い手に頬を打たれようと、厳然たる声に叱咤されようと、構わない。ただ、その心の底から湧き上がるような、澄み切った忠心を否定させてしまうことだけは、避けたかった。そんな、自身の忠義に泥をかけることに対する膨大な恐れと、閣下が肆號自身の成果に愉悦し、口角を上げるであろうことに対する期待とが入り混じった、不思議な愛情が、今、肆號の背筋を伸ばしている。肆號はそれを自覚すると、自身の心の不定なさまに自嘲的になり、ふと気持ちが軽くなった(彼の鉄面皮と言われる由縁は、この、異様な切替の早さにあるといっても過言では無い)。それを機としてようやっと、司令官室の扉を数回叩くと、明朗とした声で名乗り上げた。
「肆號、報告に参りました」
「……入れ」
扉の向こうから聞こえてきた閣下の声からは、これといった感情は感じられない。再び込み上げてきた切迫感を無視しながら、肆號は丁寧にドアノブを回した。すると、萎びて罅が入っている、所々が薄く白ばむ、松で造られた黒い扉が軋んだ音を立てて開く。室内では重厚な西洋式の意匠が施された、厳粛な空間の中、部屋の奥に置かれた、暗色の松造りの執務机に向かって、閣下が椅子に掛けていた。その机の真後ろの壁には隊旗と旭日旗が掛けられ飾られており、尊き御旗の下に静かに坐している閣下の姿は、肆號らは平常口にこそしないが、真に自らが仕えるべき父兄にして御君であるのではとすら考えるものだった。
壱號から伍號までの死喰兵も皆、閣下に恩がある。幼き頃――身も心も死にかけているのに、なお死ぬよりも酷い所業をその身に施されんとしていた、地獄すら生温いような場所で、年長者であった閣下は彼らの兄として振る舞い、守っていた。それは、単に恩と言って済ませることすらし難い、彼の施しの数々の記憶を辿るだけで滂沱の涙が堰を切って溢れるほどの、暖かく尊い無償の愛であることを、彼らは理解している。故に、彼らは皆その忠誠と滅私奉公を、皇国の主ではなく、目の前の閣下という一人の男に誓っている節がある。
「言え、肆號」
入室した肆號らそれぞれが恭しく敬礼を終えると、閣下は喉奥に歓笑を溜めた声で切り出す。机上に指を組んだ手を置くその素振りは、宛ら豪勢なご馳走が運ばれてくるのを悠々と待つようだ。そんな、自らの仕える存在が自身の成果に胸を躍らせている様子を認めた肆號は、相好を崩して、はきはきと話し出した。
「はっ、結論から申し上げます。調査の結果、只今東京都千代田区内にて滞在中の男女二十一名、そのうち五名が中国からの工作員だということが判明しました」
「……ほう。そうか、そうか」
肆號の言葉に、閣下は得たり賢しとばかり笑みを漏らして応じる。その声色の弾んだ様を聞いた弐號は釣られるように形の良い唇に柔らかな弧を描くなり、自分たちもまた彼の愉悦に与ろうと、実に親に褒美を強請る子供のような逸る気持ちを抑えながら、参號と共に肆號の報告の捕捉に回る。閣下はそんな二人の心緒を汲み取りながらも叱責せず、特に手綱を締めることもなく続けさせてやった。本来ならば、そのような幼稚な真似をしようものならば抑制し、必要ならば体罰も辞さないほどであるのだが、閣下は仏心を露わにしたのか、将又他に意図があるのか、口々に言葉を発する二人に対し、特に苛立つ様子も見せない。
「三日間つけていました。会話の内容から察するに、総理官邸への侵入及び若山総理の暗殺、若しくは脅迫を企てているようです」
「群れは六つありました。その中の一つに取り分け火薬臭え連中がいたもんですから、それをつけてみたらまア、真っ黒だったというわけです」
「全くアメ公ときたら、余計なことをしてくれます。お陰で、支那も賢くなった。空や海からちょっかいを出せないとなるや、これだ。まさか、刺客を寄越すとは」
「自棄ンなりやがって、見苦しいったらありゃしねエ。若山の糞餓鬼が意外に石頭なモンだから、余計に焦ってんだろうなア」
「それは、そうだ。君にしては妥当だ」
「だろ」
閣下が黙っているのをいいことにおしゃべりを続けている様子の弐號と参號に、肆號が咳払いをして制する。すると二人は慎ましく、弁解の余地も無さげに口を閉じた。とはいえ自分達の手柄を誇りとするその気分には同調していたのだろう。肆號にしては珍しく、彼らに対しそれ以上の追い打ちをかけることはなく、淡々と調べ上げた工作員達についての情報を示していった。
「連中の通称は烈華会。登記名・団体名としては存在せず。対外活動用の看板ではなく、内部の系統名かと思われます。構成員は日本国内の民間企業に分散して雇用され、表では通常業務に従事する一方で、裏では中国側の非公式支援と華僑コミュニティ経由の寄付資金を背景に、情報収集・接近・口封じまでを請け負う"始末屋"です。……大方、前任総理の『諸外国協働宣言』を白紙に戻そうとしている若山総理が気に入らないのでしょうねえ。あの中には領土交渉の件も盛り込まれておりますし」
肆號の報告に、閣下は連中を冷ややかに嗤って言った。
「いかにも彼奴等のやりそうなことだ。証拠はあるのだろうな肆號? 連中が黒であるという証拠を示してみろ。若山の坊主は未だに腑抜けに毛が生えたような、仕様のない玉無しだ。保身の為の手札を用意しといてやらねばあとでまた喧しく狼狽えることだろう」
「弐號には実際の彼らの会話を録音させ、参號には彼らの行動順序を記録させておりました。参號のは字が汚いですが……読めないほどでは、ないかと」
肆號が小型のレコーダーを操作し、机上に置く。再生された内容は、繁華街の雑踏の音を背景にした、狭い路地裏であろう場所に篭る流暢な中国語の音声を鮮明に記録したものだった。閣下はその録音内容を聴きながら、日付と時刻を示す断片を拾い集め、嘲笑いながら参號の記録資料に目を通す。そうして暫しの沈黙の後、微かに片眉を上げ顔を顰めると、肆號らを視界に収めながら告げた。依然として、口許には不敵な笑みを浮かべている。
「ふむ……よろしい。これだけ揃えば十分だ。肆號、そして弐號と参號……ご苦労だった。参號は明日以降写経に励め。帝國軍人ともあろう者が蚯蚓を書いて喜んでいるなど話にならん、恥を知れ」
閣下の咎めに、参號はぐうの音も出ない様子で、唸るように「ハイ、申し訳ありません」と返すことしか出来なかった。さながら無様な負け犬に酷似した物悲しい表情に特に同情もしなければ、少し呆れたような眼差しで一瞥した後に、泰然と閣下は続ける。それでも、大まかな指示で簡潔に済ませるのは、自身の部下への厚い信望故であろう。一抹の思案から来る沈黙すらなく、閣下はすらすらと作戦内容を並べ立てていった。
「作戦執行は明後日、〇二〇〇(マルニーマルマル)とする。奴らが“打合せ”と称して集まる時刻だ。密偵容疑のかかっている支那人共を標的として、強襲作戦を行う。場所は連中が根城としている旧帝都ホテルだ。建屋は小規模な七階建て。哀れにも二年ほど前に廃業し、現在は廃墟と化している。近いうちに取り壊される予定だ。例のビラのせいでこの区域自体人通りも少なくなっているが、油断はするな。一般市民は巻き込まぬように行動しろ。狙撃は壱號と日向、突入は弐號と参號だ。抵抗されない限りは、あくまでも標的の『勾留』を目標とする。やること自体は簡単だ。“何も無ければ”なんの雑作もなく終わる――“何も無ければ”な」
恐らくそのようなことなどは無いはずだ――否、そうでなくては面白くない――そんな意図の込められた、享楽の含み笑いを伴う言葉に、死喰兵達は上官の悪癖をそれぞれ苦笑したり、肩を竦めたりした。先刻咎められたばかりの参號でさえ、そのような事実はなかったかのように、迫り来る闘争の匂いに胸が躍り、実に好戦的に口角を上げてしまっていたほどだ。
事実として、閣下はこの状況を楽しんでいる。彼は、戦場に自分たち死喰兵の居場所を見出しており、日常すら戦場のための布石として捉えていた。その冒涜的とすら思える意識には、人間としての安楽を尊び、平和を是とする要など存在しない。命に際限など無い魔の類こそが歓喜できよう、修羅道に足を踏み入れて尚まだ満たされぬ、一種の狂気に冒されているのである。
「突入班は警備員の扮装をすること。やってくる間抜け共が本当に連中かどうかは、参號が見極めろ。一階周辺で待ち伏せし、連中と断じたならそれらしく職務質問でもして捕縛。抵抗されればそこで取り押さえてもいいが――相手は五名、それなりに手練れだ。暴れられても、分散されても困る。一纏めに追い込んで、屋上まで連れてこい。幸い、この建屋の階段部分は屋外に面してはいない。屋上に着いて、大人しく従うようであれば、総理のお望み通り、穏便に縛り上げて連行だ。ただし、抵抗した場合は狙撃班が殺せ。状況完了後は、各自"地下"を通ってここへ戻ってこい。この間肆號と伍號は若山殿の警護に当たれ、実質待機だ。何か意見のある者は?」
司令官室は静まり返った。誰も異存を唱えるものなどいないのだ。すなわちそれは、この場に誰一人として真人間たる感覚を持った者などいないことを意味している。それに自嘲的でありながらも、彼らは皆、自らの狂気を否定せず、寧ろその狂気を狂気であると捉えることにすら懐疑的な視線を向けているままに、人間の悪徳という悪徳を総浚いしたような道義の欠いた笑みを浮かべて、全員が口を揃えて答えた。
「異存ありません、閣下」
閣下は彼らの今にも出撃を望むような明るい声に、燥ぎ盛りの子供らを彷彿としながらも、また自らもその頭領であることを些か慙愧し、彼らへの指導を自身が行ったことに対する湧き上がる後悔と葛藤を制して応えてやる。死喰兵達は皆、良い意味でも悪い意味でも閣下に対しては素直であるのだ。彼の悪癖すら自らの自嘲すべきところとして忠実に倣ってしまう上、彼の持つ自らへの諦観めいた、死への挑戦心をも教義として自らの芯と為している。閣下は彼らのその姿勢に父兄たる愛を抱きながらも、時として案ずることもあった。仮借無い極悪漢の顔をして、敵対者を完膚無きまでに叩き潰し蹂躙することを良しとしていても、弟妹に等しい部下達が傷つき、血を流せば、刹那、心が翳り、転じて憎悪が湧き上がる。これこそが、自らを単に化物だの、生き軍器だのと称するこの男の、薄氷の張った部分であるのだ。
しかし、それでも、どうしても闘争への熱は冷めなかった。優に五十年以上もの間、空白は彼らを嘲笑ってきた。忘却という刃をちらつかせながら、彼らの過去の栄光を、無間のように感じられる退屈で捩じ伏せ、辱めてきた。それが払い除けられて今、彼らは夢にまで見た戦場を目の前に出され、飢えた獣の如く垂涎している。熱は、冷めるはずがなかった。最早閣下は、その父兄たる愛情さえをも、己らに対する最後の侮辱になりかねないと捉えている。彼らの一騎当千たる蛮勇を信じ、血に渇いているのを満たしてやることこそが、自分と、彼らにとっての最大の報いとなるのだと解していたのだった。
「よろしい。では、これにて解散とする。各員は以後の準備に掛かれ」
「はっ」
整然と頭を下げて肆號達が出ていくと、司令官室には長い閑寂が訪れる。閣下は、地下壕の冷たくか細い空気が、ひうと肌を撫ぜるのに、心地よさを感じてしまうほどの熱を認めていた。切望した、戦の夜が眼に浮かぶ。己らの存在意義が見出される、愛しい庭がすぐそこにあると、心が逸るのだ。
「……さて、凶と出るか、吉と出るか」
熱に浮かれた声が、静寂の中に溶けて消える。心底おかしそうに、彼は喉の奥で笑った。


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