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第5話 策謀

  • 執筆者の写真: 旧川 禅
    旧川 禅
  • 2025年11月30日
  • 読了時間: 16分

更新日:2025年12月19日

2050年某日のことである。首相官邸にある総理執務室にて、内閣総理大臣・若山正武は頭を悩ませていた。前政権の悪政の精算の数々に加えて、丁度一ヶ月程前に邂逅した、大日本帝国陸軍の忘れ形見である、改造兵で編成された機動殲滅部隊『旭』の面々については勿論のこと、自身が掲げた政策の一つ『クリーンビジョンの緩和』によっても、また新たな課題が齎されていたのである。それは若山が敵性国家として睨む各国によるものか、もしくは、若山を追い詰めようとしている対立政党によるものか、それとも、彼を総理大臣の座から引き摺り下さんとし、尚且つ若山の度胸を試さんとしている日本国民によるものでもあるのかとさえ考えられた。しかし、こうした難題を若山の一存で裁するには心許なく、埒が開かぬまま時ばかりが過ぎていく。殊更に彼の苦悩は、計り知れないほどに深まるばかりだ。今、彼の正面に据えられた、両袖の天然木で出来た重厚な書斎机の上には、大臣秘書官に扮した肆號が持参した一台のノートパソコンが置かれている。それに映し出されているのは、現在巷を賑わせているニュースであった(クリーンビジョンの段階的な緩和により報道規制が解除された結果、国民の目に入る情報は日に日に量を増していっているのだが、内容は玉石混交である。それが仇となっているのか、やはり国民の不安を煽る情報も後を絶たない)。映像の中では、インタビューを受けている青年が、部屋のポストに変なチラシが入っていたとコメントしている。そのチラシは近頃流行っているもので、内容は『千代田区内に工作員が潜んでいる』というものだった(いわゆる“スパイ注意”を煽るビラだ)。若山は何度目かもわからないその映像の再生を続けながら、これまた何度目かもわからない深いため息をつく。そして、いっそ愚かな排他主義を掲げる煽動者のデマであれば良いだの、この青年には悪いが、例のチラシが部屋のポストに入っていた者全員がとある店舗に勤めていて、その接客が粗雑なものであったために、一種の奇妙な嫌がらせを受けていればいいのにだのと、そんな不誠実で荒唐無稽な妄想さえ広げてしまっていた。それは現実逃避のようなものですらあり、若山は現状、何から手をつけるべきかの目処が全く立っていない。公安はこういう時、大抵腰が重く使い物にならないし、防衛省に呼びかけるのも時期尚早である。だからと言って、何も行動を起こさないのは、かえって国民の期待を裏切ることにもなりかねない。――

 

(このような時、日向さんがいてくれたならば。彼女もどちらかというと穏健派の思想であった。帝国化を急いでいる様子は無く、ただ単純に、我が国は我が国のまま誰からも奪われることもなく、そして、子供らが辛い思いをしなければなんでも良いと、そう言っていた。私ももちろん、そう思う。そうは思うのだが、誰からも奪われることのない国は、やはり強い国であるのだ。……)

 

 若山はこんな時、現実逃避の一種として、頭の中に日向一等卒の顔を思い浮かべることがあった。目の前に立つ肆號でさえもそうだが、機動殲滅部隊『旭』の連中には、彼女ほど愛嬌があり、能天気な人物はいない。兵としてそれはいかがなものかという話ではあるが、冷酷無比にして鬼気森然とした彼らの中だからか、取り分け日向は、若山の目には、観音菩薩の如く慈悲深い女子であるように映った。というよりも、実際に話したところ、そのように感じられたのである。地獄の軍団という言葉も似つかわしい彼らと出会って数日が経つころ、日向が官邸関係者に扮して、若山に挨拶をしにきたことがあった。その際の彼女は、初めて会った時に見たニヒルな微笑をちらつかせるわけでもなく、閣下に怒鳴られ、腰を抜かしかけた若山を立ち上がらせた時に見せた、人懐こい猫のような笑顔を浮かべていたもので、若山も、緊張という緊張が消し飛び、終始柔らいだ気持ちで歓談に興じることができ、なるほど、娘がいたらこのような気になるのかと、そのとき初めて思った。さらには、日向は若山に度々、閣下について、『顔こそ、態度こそ一寸怖いですが、本当は親切な方ですので』と、苦笑しつつも念を押してきたもので、ははあ、と思ったことを覚えている。それがなんとも愛くるしく感じた若山は、日向のことを応援したいと考え、親しみを抱くに至ったのだった。人間というものは、窮地に陥るとこのようにして、今現在自分が抱えている苦難とは正反対の、全く関係ない、自身に救いをもたらすであろう無害な存在(と、残酷なことにも、若山が勝手に思い込んでいるだけであるのだが)を思い浮かべることで一時的に救われた気持ちになるものだ。その対象が、若山にとってはたまたま、日向だったのだ。


「――どうお考えでしょうか? 若山殿」


 憂鬱げにため息を吐く肥った中年の返答をいつまでも待つのにも流石に業を煮やしたのか、彼の元に、実にしめしめと言わんばかりにこの映像媒体を持ってきた張本人である肆號が声をかける。他者に対し意地悪な興味心を持ちがちな彼としては、若山が慌て転げる様子を期待していたのだが、慌てるどころか、一周回って物憂げに沈黙し始めたのには想定外だったらしく、退屈そうに指先の爪同士を合わせては弾いている。そんな肆號の態度を気にするでもなく、若山はぼんやりとしながら心中を吐露した。

 

「考えることや、手をつけることが山積みだ。前総理がしでかしてくれた協働宣言の件に、千代田区内のスパイ滞在、さらに相変わらず腰の重い日和見主義の公安に加えて――まさか君が、大臣秘書官に成り代わっていたとは。日向さんのように、官邸関係者に扮するでもなく……」

「閣下が心配なさっておりました。ですから、隊員たちの中でも一番隠密と護衛に向いている私がと。ああ、前任の方なら大丈夫。ちょっと“手品”を見せただけで簡単に替わってくれましたから」

「手品? 手品だと……?」

「これ、この通り」

 

 若山の零した言葉に対し、肆號は同情することもなく、さも当然といった様子で微笑む。その微笑に、若山はふと、日向一等卒はこれを模倣したのだろうかと茫然と考えていたのだが、その微笑みが見慣れた人物のものへと変貌するのを見るなり、彼は思わず腰を上げて驚いた。肆號の若く中性的な、整った相貌が、あっと言わないうちに、法令線や目尻の皺が目立つ、皮膚の色は褪せ、弛みが生じて、頬の上部に肝斑が見られる、団子鼻の初老の女性へと、ぐにゃんりと変わっていったのだ。

 

「ヒイ! な、なッ……! どうなっとるんだ!」

「すごいでしょう? 私は味覚と舌のつくりが少々特殊でして。 一度その人の汗だの血だのを味わえば、簡単にその人になれるんですよ。 骨格や体脂肪率までまるっと複写してしまうんです。ああ、お望みならば若山殿にもなれますよ。なります? 汗を頂くことにはなりますが」

「な、ならなくて良い! 君の能力とやらはよくわかった!」

「あら、そうですか?」


 残念だとでも言いたげに、肆號は若山に迫るのをやめる。そして彼はここへきて初めて、ようやく見たかったものが見られたらしい、満足した微笑を見せた。肆號は、他人が慌てふためく姿を見るのが好きなのである。今や彼の悪趣味ともいえような立ち居振る舞いに対して、驚く者はおろか、宥める者すら旭には存在しないので、若山の反応は至極新鮮で、面白おかしく感じられたのであった。そんな肆號の気など知ってか知らずか、自らに迫っていた彼を押し退けて、若山は話を切り出した。その表情には先ほどの驚きや焦りはなく、閣下ならまだしも、その部下である者にすら弄されているという屈辱的な事実に対する、自己保身的な意思の下の精悍さがあった。これ以上の侮辱を受けることを良しとしないがために、若山は堂々とした姿勢を取り直して、再び椅子に腰を落ち着け、切り出す。

 

「……こほん。それよりも! 目下の課題があるのだ。 国民たちは皆、前政権時に行われた『諸外国協働宣言』以来、外国人に対し不安を抱いている――私は今や、全ての国民に救済を求められている立場だ。こういったスパイに対しても、強気に出なくてはならないのだが……もし判断を誤れば、外交問題にも発展する。今はまだその時ではないのだ――」


 しかし、とことん運から見放されているのがこの男なのだ。若山はただ単純に、これからどのように穏便に手を打つべきかを考えたかった。否、茨の道を歩まずに、どうにかして、あたかも国民の期待に応えるかのような最良の動きへと転じたかった。強欲なことに、そうすることで自身の政権と、身の安全を確立しようとしていたのだ。だが、それを見据えたかの如く、執務室の扉の向こうで誰かがせせら笑う声がしたかと思えば、扉が乾いた音を立てて開いていった。若山の背筋に、ぞくりと寒気が走った。


 「いかにも。未だその時ではありませんな――今の我が國は弱すぎる。風前の灯火と言っても差し支えない」

 

 総理執務室には規則正しく、聞くだけで萎縮するような、硬く冷たい威圧的な足音が響く。若山は恐る恐る顔を上げた。若山を見下ろす彼――閣下の、軍帽の庇の下から覗く、常に殺意に満ちているかのようにぎらついた四白眼の瞳は、相変わらず鋭利で冷ややかなものである。それはまるで、若山の強欲を見透かして、侮蔑しているかのようにさえ思えた。

 

「――君か 」

「ご機嫌よう、若山総理。お困りのようで」

「ああ、困っている……困っているとも。 君のその恐ろしい姿を見るたび、私は胃がきゅうと痛む」


 言いながら、若山は閣下の頭から足先までを眺めた。旧日本陸軍の将校姿をした国防色の化物は、いつだって相手を萎縮させ、旧き帝国の軍靴を脳裏に呼び覚ますのである。閣下は若山の怯み切った声を鼻で笑うと、重々しい声で、粛々と述べる。

 

「……軍装(これ)は我が帝國の象徴。

 この軍帽、外套、制服を着ていなくては――

 私が帝國のものであるということの証明にならない。

 私が生体兵器(化物)であるということの証明にならない。

 私が閣下(私)であるということの証明にならない」

 

 あくまで自身を帝国の産物であると位置付け、そこに関しては一切の妥協も許さないと言った様子で、閣下は言い放つ。若山は彼のその様子に、自身とは異質過ぎる何かと、『愛国者』の負い目のようなものを感じて引き下がらざるを得なかった。若山にとって閣下ら『旭』とは、先祖代々受け継ぐべき業とも言える相手である。帝國を至上とし、帝國を実施しようとする自分たちが知ろうともしなかった、詫びることすら最早手遅れな、帝國の産み出した罪禍の産物なのだ。それを覆そうとする勇気すら持てない、閣下の圧倒的な姿を前に座っていられるのがやっとなほどに臆病で、疚しさを持つだけに至る自身が、若山はひどく情けなかった。彼はそんな自分の心を誤魔化すように自身の髭の先を摘んでは、指で撫で付けながら、細々と言葉を返すに留まった。

 

「そ そうか…… 慣れることにするよ……」

「そうして頂けると助かります。本題に入りますが若山殿、我が國に小汚い鼠が入り込んでいるようですな」


 閣下はそんな若山の心情に関心を示すこともなく、ようやっと自分たちの目的にありつけたといったような様子で話を切り出す。身を乗り出し、若山に逃げ場など作らせないかのように。まるで上から重石をかけるかの如く、若山の向かう書斎机に両手をつく閣下の巨躯が作る影が、若山に覆い被さり、若山の姿は、さながら野の獣に捕らえられ、首元に鉤爪を向けられた、肥えた家畜のようであった。しかし、尻込みしている若山は、なかなか旭を頼ろうとしない。本来ならば閣議に諮るべき類の話であるにも関わらず、国家の為だと言って、独断で総理が私兵を利用する――それ自体が大罪であることは確かなのであるが、『帝國陸軍第十三号坑道』とその“住人”の存在を知る閣僚など、この国に一人としていない。加えて実態としては、『愛国者』として、己が目指す帝國のために献身しようとしない舌先三寸ばかりの口達者というのが、今の若山だ。若山は確かに現状を打破したかった。今や搾取され続けるだけの、帝国だった時の影も形もない日本を、少しでも変えたい。国民に己が国の優れたるを示し、捩じ伏せられた克己心を蘇生して老いた闘争心を呼び起こし、帝国の再建に取り掛かりたい。そして、過去とは違うより良い帝国を築き上げ――その暁には、国民凡てに約束された安寧と秩序を齎し、貧者などいない桃源郷へと登り詰めたい。だが、その代償はあまりにも大きい。大罪を犯し国に尽くすことが果たして国のためになるか、というのが、彼らを運用する際の、いわば一種の命題のようなものなのである。


「う、うむ……しかし、その、あれだ。そうとは断定できん。事実か、はたまた若人が面白半分に作り上げたデマや、都市伝説の類かもしれん」

「なら精査すればよいこと。我々に頼っていただければよろしい」

「そうは言っても、危険だ。もしも事実だったとして、一歩間違えたら、君たちが……」

「『愛國者』の役に立つことこそ、我々の義務なのです。使い潰してくれなければ困る。それに、我々はただの人間とは違う。躊躇や逡巡さえしなければ、同情も容赦もしない」

「しかし……総理の身でありながら、私兵を動かすなど……ただでさえ、君たちは、その……、……」

「……。――左様ですか」

 

 なんと言おうと渋る若山の返答に、閣下は呆れた。何を言おうとする気も無くなったのか、口を開きかけて閉じ、興味を失ったかのように視線を外したのだった。国のことよりも保身に走る腑抜けに仕えること自体が馬鹿馬鹿しい、という気持ちが、帝国の亡霊のその表情に現れていたのだ。若山はそんな彼の表情に、痛いところを突かれた気分になり、喉元まで胃酸が込み上げてくるのを感じた。――

 

(愛国心を訴えて国民の期待を勝ち取っておきながら、私は未だ保身を貫いている。それは前任の愚かな総理大臣と何一つ変わらない。私はかつて、名すら思い出したくもない前任総理の所業の数々に呆れ、その愚策や二枚舌の悉くをこき下ろしてきた。そして、ろくでもない苛政に喘ぐ国民を救いたくて、あらゆる手を尽くし、東奔西走し、演説に演説を重ね、国民から支持を得て、政権を毟り取ったのだ。私が前総理の二の舞だと知れば、国民達はどれほど失望するだろうか。この国のために命を投げ打つ覚悟のない者に、『愛国者』を名乗れるのだろうか。このまま我が国を堕落させ続けるくらいなら、悪魔と手を組んだ方がマシなのではなかろうか。……)

 

 若山は思い至り、ズボンを握りしめた。

 閣下はそれに構わず、最早会話を終え、撤収しようとしているかのように肆號に頷いて合図をする。そして、侮蔑的な視線を遣しながら再び若山という小さい男を見下ろし、口を開こうとした――が、その瞬間若山が椅子から立ち上がり、啖呵を切った。その憤りは閣下に対してのものではなく、情けない自分自身に向けたものでもある。


「いいや……! もう、覚悟はできている……私が、兼ねてより決めていたことだ……! たとえどんな手を使ってでもこの国を……この國を強くするのだと誓ったのだ! 退路は断つ……!」

「……ほう」

「『旭』……機動殲滅部隊『旭』に告げる! まずは巷に出回っている情報を精査しろ! 精査の結果、これら情報が是ならば即刻密偵を拘束し、連れてこい! しかし――非であるならば手は出すな、私のほうでどうにかする……!」


 さっきまで自分が見下ろしていた小男が声を荒げるのを見て、閣下はそれに興味を示す。そしてその、やや震えながらも優しさの残る、締まりの無かった少し高めの声が、勇壮さに満ちた、覚悟を決めた男の声へと変わっているのに対してさも面白げに口角を上げると、つらつらと機嫌良さげに肆號に指示した。肆號はそんな閣下の心情を慮ったのか、彼に対し微笑みながら深々と頭を垂れる。その場の二人の死喰兵にはこれから起こることに対する恐怖など微塵も無く、ただ闘争の予感を嬉々として受け入れている様子であった。

 

「御意。……聞いたな? 肆號。民の間で出回っている、工作員に関する情報について調べろ。必要なら弐號と参號を動かしてもかまわん。此度の諜報任務における全権は貴様に委ねよう。調査の結果が出たら迅速に出撃要請を出せ。以上だ」

「承知いたしました閣下。この肆號、全身全霊をかけて必ずやご期待にお応えいたしましょう。では若山殿、早速任務に取り掛かって参りますので、私はこれで」


 肆號は、やっと仕事がもらえたと言わんばかりの、軽快な足取りで去っていく。国家間の関係はおろか、自分たちの身に危険が及び兼ねない重大事態であるというのにも関わらず、失敗の二文字も頭に無いようで、寧ろ水を得た魚のように生き生きとして踵を返す様子は、完全に常軌を逸していた。平和も安寧も望まず目の前に出された闘争に心を奮わせる、自分たち現代人とは全く異なる帝国の亡霊に、若山は恐怖に近いものを憶え、動揺を隠せぬまま、生返事を返すことしかできない。


「う、うむ。頼んだよ」

 

そんな彼の生返事に、肆號は思い出したかのように恭しく頭を下げ、総理執務室を出ていく。若山が今にもこめかみを伝い落ちそうになっていた冷や汗をハンカチで拭いていると、閣下は若山に向かって、満足気に、仰々しく拍手を送った。


「まずは第一歩――といったところですか、若山総理。少しだけ見直しました。それにしても貴方の判断はぬるい、ぬる過ぎる。煮えたぎる地獄の釜の底が恋しくなるほどだ。我々に、この機動殲滅部隊に、"敵兵"を"活かせ"という。いやはや手緩く、また難儀なことだ。しかし我らは軍人ですからな、総理。もし激しい抵抗にあった場合は――言わずとも、お分かりですね?」


 閣下は上機嫌に、饒舌に言ってみせる。その言葉は若山の決断の揚げ足をとり、けちをつけるようなものであると同時に、若山の軟弱な優柔不断さに釘を刺すものでもあったが、この男の仏頂面しか見たことのない若山は、閣下がこれまでに無く上機嫌に口角を上げ、その肉食の獣のような歯を覗かせながら目を細めている様子が、おどろおどろしく感じてならず、何の反論も出てこなければ、思いつくことすら困難であった。しかしその一方で、若山には、それが往々にして脅迫の名を借りた期待であることは理解できていたのだ。――

 

(閣下は私に、帝国の奪還を望んでいる。闘争を追い求め、戦時への回帰を望んでいる。戦場に己の存在意義を見出している。きっと彼はそのうち、文民統制の廃止すら求めるだろう。そして、私自身を傀儡として、閣下らが実質的に政権を握るよう画策し始めるだろう。だが、私は傀儡になるつもりも、閣下らのような過激派の帝国主義者にこの国を委ねる気も毛頭無い。あくまでも自分はこの天魔のような男と対等であり、説得し、指揮する立場でなくてはならないのだ。あわよくば、この男を、人間に戻してやることも、出来るだろうか。この恐ろしい、現世を地獄へ変えんとする過激思想の帝国主義者を、穏やかに笑む青年にしてやれるだろうか。闘争などとは縁の無い、ただの一国民に戻してやれるだろうか。どれも望み薄だが――それさえもやってのけようという気概でなければ、私はこの男に呑まれる。……)

 

 僅かな逡巡の後、若山は閣下に対し、粛々と応えてみせた。

 

「……わかっておる。その時は、その時だ。 正当防衛であるならば、致し方ない」

「ッククククク……ご理解いただけて何より。ここで吉報を、しばしの間お待ちください。では、失礼」


 若山の返答に、依然として閣下は魔の如き笑みを絶やさぬまま去っていく。若山は、ここで期待にそぐわなかった場合、彼の機嫌を損ねるのではと思った。しかし、若山は命欲しさにこの化物のご機嫌取りに徹したわけでは無い。謂わば政治での常套手段である。協同の意思を示せば、連携が円滑になる。今後彼を懐柔していくための、最初の一歩と言っても差し支えない。若山は、少しでも自分が彼らと共通する意思を持っていると知られれば、閣下は自分を同志と見做し、彼の持つべき野心を燃やすことも抑えられるだろうと考えたのだ。彼はここでも駆け引きか、と内心独りごちたが、国のためには仕方のないことだと妥協している。ただ、今の無力な若山にできることは、有事とならないことを祈ることだけだった。

 

「……すべては 全ては、祖國のため――我が國のためなのだ」


 若山はたった一言呟く。その小さなぼやきは、総理執務室の真新しい白壁に吸い込まれて、すっと消えた。

 彼はただ突っ立ったまま、地獄の底から響くような冷たい足音が遠ざかるのを聞きながら、しきりに汗をハンカチで拭っていた。

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