第4話 空は焼かれる
- 旧川 禅

- 2025年11月21日
- 読了時間: 13分
更新日:2025年12月2日
1945年3月10日のこと。その日はとても風が強く、未だ残る寒気がこれでもかと言わんばかりに体に叩きつけられ、残寒が骨身に染み渡る日であった。米国の本土爆撃が続く中、警戒を解くことも出来ぬまま日本国民は過ごしていた。当時高等女学校の学生だった日向も例外ではなく、幼いながらも女の勘が働いていたのか、その日は一日、まるで世界が終わってしまうかのような不安を抱えて過ごしていた。しかし、なかなかその時が来ることもなく、とうとう夜になっても、春嵐たる凄まじい勢いの風が、木造りの校舎の窓をぴしぴしと叩くばかりだったので、日向は国家総動員法の下、上級生として変わらず防空監視の当番を担っていたのである。勉学の時間を削り、国のために粉骨砕身する。被災した場所を巡っては、女の小さな手が瓦礫を除き、砂袋で消火する。それが、戦時中の学生の役目だった。運の悪いことに泊まり当番となっていた日向はその嵐の夜、空襲警報を受けて校舎から学校の防空壕へと避難していた。日向はその間、ただただ名状しがたい胸騒ぎに襲われ、早くこの警報が解かれないものか、憎きアメ公――彼奴等が本土の空から退かないものかと、切実に願う他無く、与えられた仕事も満足にできない状態だった。
日向は度々、防空壕と学校を行ったり来たりした。学校の窓から外を眺めれば、自身のいる区画にはまだ延焼が広がっていなかった。校庭も、商店街も、住宅街も、平常と変わらずそこにあった。そして、気付けばサイレンは止んでいた。アメ公が去ったのかもしれない、と考えた日向は、さらに気が逸った。なんとしても今日、否、今帰って、家族の無事を確認しなくてはならないのだ、そうしなければ自分は何もできない、その上、きっと後で後悔するに違いない――と、謎の焦燥感に支配されていたのである。
「こら、日向、待たんかッ」
「すみません、一寸だけ離れます、すみません」
警報が解除されたと見るや、彼女が行動に移るのは早かった。誰よりも早く防空壕から出て、走る。教員の制止を振り切って、黄土色の地を蹴り、脱兎の如く駆けていく。日向の学校から彼女の家までの距離はそう長くはない。学校の最寄りの商店街を越えた先の、住宅街の端、魚屋の隣にある、こぢんまりとした茶色屋根の木造家屋が彼女の家だ。引き返す気など到底起きなかった。後に、教員や家族に叱責されたとしても、特に後悔は無いと思えるほどに、当時の彼女の、家への執着は烈しいものであった。
「解除だ!」
「家に帰って、よし!」
商店街を抜けた辺りで、警防団員の声が轟いていた。それを聞いた日向の気持ちは一層逸り、自分の行いに正当性すら覚えて、自信がついていく。彼女の足は止まることを知らなかった。家族に会いたい一心で、ただひたすらに駆けていたのである。夜間に女子が一人で出歩くな、という警防団員の男の叱責すら無視して、少女は風のように駆けていた。
駆けていたのだが。
「え」
ひゃおう、という鋭い音がした刹那、日向の体は宙に浮き、背中に重い何かが叩きつけられ、前方へ吹っ飛ばされる。地面に伏した彼女は、何が何だかわからなかった。ただ、体が重く、背に何かが突き立てられているような苦しさと、虚脱感が襲ってくる。辺り一面には彼女自身嫌というほど嗅いだ、建屋が焼かれる匂いや、壊れた建物から露出した木材の湿った匂い、投げ出された建材の鉄の匂いが広がり、それに人の肉を焼く匂いが混ざっている。高い耳鳴りと共に、木が燃える乾いた音や、トタン屋根の崩れ落ちる轟音が聞こえる。日向は苦しさと虚脱感の中、自分のいた区画が爆撃を受けたのだと理解した。すると不思議なことに、先ほどまでは感じてすらいなかった痛みが、彼女の体を支配する。苦しさに呻くことしかできず、たった一人で激痛に曝され、その手を握るものは誰もいない。「自分はこんなところで、一人ぼっちで死ぬのだろうか」「嫌だ」「お父さん、お母さん、お兄ちゃん」そんな言葉が脳内を巡り回って、彼女の絶望をさらに掻き立てていく。生への渇望を掻き立て、擦りむき傷や切り傷でいっぱいの手で、地を這わせる。
「まだ……、ま、だ……み……な……家に……」
少女は喀血し、ずりずりと蛞蝓のようになって地を這う。彼女が生きてきた中で、そこは最も地獄のように感じられ、そして同時に最も屈辱的な姿でもあった。死に損ないながら惨めに生に縋り、望みが薄かろうと構わず前進する。この期に及んで、自身はまだ死なぬのだ、死ぬわけにはいかぬのと、諦め悪くもがいている。
そんな少女の耳に、硬質な、規則正しい、異質な足音が聞こえてきた。それはまさしく"死"の主の足音であるようにさえ感じられたのだが、日向は最早なりふり構わなかった。相手がたとえ地獄の閻魔大王だろうと、獄卒鬼、悪鬼羅刹の類であろうと、言葉が通じるのであれば良かった。虚脱感を振り切りながら、背中に刺さった鉄屑や硝子の類から目を逸らして、必死になって、日向は顔を上げる。そうやって認識したこちらに近づいてくる存在は、風貌こそは大柄な陸軍将校であるのだが、燃える悉くの炎が空まで届いて夜空を焼き、赤銅色に染め上げている――その下を悠々と歩き、炎熱をものともしない異様な様子は、人の皮を被って顕現した、天魔波旬のようですらある。それでも構わず、日向がその軍人に向かって手を伸ばした頃には、彼は日向のすぐ前にまで辿り着き、彼女を見下ろしていた。その外套の裾は擦り切れてぼろぼろになっているのだが、却ってそれはより一層、彼の非人間であろうことを象徴するに相応しい禍々しさを放っており、彼が膝をついた瞬間に舞い上がったそれは、まるで悪魔の大翼のようにすら思えた。日向は今にも息を引き取りそうになりながら、その恐ろしい人外の足にしがみつき、言った。最早彼女には、一縷の望みすら叶わずに死ぬこと以外の恐怖など存在しなかった。目の前の存在の人間非人間の分別などどうでも良く、自分が生きることしか頭に無かったのである。
「おねがい……助けて。助けて、ください…… 家族に、会わなくっちゃあいけないんです……」
吐き気を耐えながら、日向は彼に必死に命乞いをする。その相手が魔物の類だと理解していても尚、後先考えずに乞うていた。たとえその男が、後に、残酷なことに自身の身も心も滅ぼすような莫大な代価を求めてきたとしても、卑怯なことに恩を売って自身を好き勝手しようとする暴漢であろうとも、呆気なく一言二言で頷いてしまう程には、彼女は自棄になっていたのである。そんな少女の哀れな懇願に対して、この軍人は顔色一つ変えずに、低く、重々しい声で言った。
「……楽にして欲しいということでは無いようだな 未だ生を望むか そのなりで」
「はい……どうか お願いします…… 助けて」
軍人の声に対して、日向はあまりに率直であった。まるで言葉そのものしか受け付けないと言ったかのような態度であったので、却って軍人は興味を惹かれたようで、少女が長靴に縋り付いてくる手を丁寧に剥がすなり、対照的な大きさの手でそれを握り、その真意を確かめるようにして、訊いた。
「お前は死を拒むのか? この死は、宿業だ。この日貴様は鉄火の雨に晒され、爆炎に喉を焼かれ、木っ端鉄屑に身を貫かれ、死すら甘美に思える苦痛によって死に果てる。そしてまた、いつの日かこの國の者として生を受け、今のこの苦痛に相対する真っ当な幸福、真っ当な富、真っ当な安寧を得て、長く生き、家族に囲まれ死ぬのだ。その約束された来世の安寧を拒んででも、貴様は宿業たるこの死を退け、この世に縋り付くのか? 小娘」
日向と軍人にとってそれは、契約の応酬であった。焼かれ焦げる空の下で、厳粛に行われた秘め事であり、誰にも知られてはいけない魔道への一歩であったのだ。軍人は愛しげに目の前の死にかけの小娘が口を動かすのを見つめ、少女は恋しげに軍人の魔の手を掴む。全ては生きてこそ、ただ生きてこそさえすれば良い――そんな愚かな、人としての矜持も尊厳も打ち捨てた悪徳が、その場では最も高潔で清廉な美徳へとすげ替わったのである。少女は、軍人に対し、掠れて今にも消えそうな声で、切実にその想いを紡ぐ。
「はい。家族に、会いたい……どんな生だったとしても、私の大事な家族を―― 捨てて死ぬことだけはしたくない」
「……そうか。では小娘、我が血を食らうが良い。そして我々と同じ、血肉で出来た軍器となり、この帝國を永劫護り続けるのだ。貴様は罪滅ぼしをせねばならん。人の道理に背いて輪廻を脱したからには――そうやって償い続ける他無いのだ」
軍人はそれを笑うでも無く、喜ぶでも無く、彼女の手を握る力を強め、その契約の代償を告げたのであった。
「貴様は今、人の理から背いた」
彼は少女の手をそっと放してやると、軍刀を抜き、手袋を外す。白いそれの下から現れた大きな手は、指の関節全てに痛々しい縫い跡が刻まれており、悍ましい。だが、彼には痛みなど無いのであろう。やはり眉一つ、口許一つ動かすことなく自身の手首を切る軍人は、腕を下ろし、指先まで血を滴らせてみせる。そして血に塗れた指を少女の口元に差し出すと、その血で喉を潤してやった。軍人は少女がその血を躊躇いなく己の体に迎え入れるのを、特に感情を見せるわけでもなく、ただただ眺めていた。
そうして、彼らの契りが結ばれたのである。少女の体の傷は忽ち癒え、虚脱感も引いていく。しかし痛みこそは残っているのか、軍人が彼女の背に刺さった鉄材や硝子片を抜いていくたび、うぐうと苦しげに呻いた。だが、傷跡や痛み、倦怠感こそ残れど、彼女はようやく半身を起こし、空を仰げるようになったのだ。少女の回復を見ると、軍人は彼女の願いを果たすべく、少女をおぶって歩いてやった。
「ここを真っ直ぐ行けば違いないか? お前の家は」
「はい、近くに魚屋がありました」
「焼魚の匂いを辿ればお前の家か。着く頃には立てるようになっているだろう。それまでの間は運んでやる」
「あ……ありがとうございます」
「お前、名は?」
「日向です――日向羽留子」
「羽留子か。寝るなよ、着いたかわからんからな」
「は、はい」
そんな不器用な会話を交わしていき乍ら、日向は、彼が思っていたよりも親切で優しい人なのでは無いかと考えるようになった。外見こそ恐ろしい化け物のような雰囲気を纏って、聴く者の背筋を凍らせる厳粛な低い声でいながらも、用いる言葉は一寸尊大な人間のそれであり、成そうとするところは誠実な青年のそれである。歩きながら、軍人は時折日向に向かって、痛みはどうだだの、自分のこの背負い方で苦しく無いかだのと聞いてくるので、日向の軍人に対する印象は、すぐに代わっていった。地獄の大魔王だと思っていた者が、親切なお偉いさんのお方になったのだ。そうなれば、彼女が彼に心を許すのも時間の問題であった。日向は、ふと自身を背負う軍人の背に、大好きな兄の背を重ねてしまったのである。日向は、何かあればすぐに飛んできて、一人でいることすら良しとしないまでに可愛がってくれていた自分の兄が大好きだったのだ。その兄が徴兵令を受けて戦地に取られると決まった時程、軍を憎んだことは無かった。しかし人間というものは単純なもので、たとえひどく憎んだ対象であっても、こうして自分にとっての何らかの利益をもたらされてしまえば、その憎しみも簡単に揺らいでしまうものなのである。自身の兄が徴兵されたら、きっとこの軍人さんのように親切で、心強く、背が広くなって帰ってくるのだろうかなどと考えると、愛する兄の現在が気がかりで仕方なくなった。父と母と共に生きていてほしい、きっと防空壕の中で身を寄せ合っているに違いない、そうであってほしい、という願いが一層強くなり、同時にそうでなかった場合のことも考えるとたまらなく切なくなって、心細く寂しい気持ちや不安な気持ちが、涙となって込み上げてきたのである。軍人は、そんな日向が言葉数少なくなり、鼻を啜る音が増えたのを認めると、黙って背負い直してやるのだった。
軈て、軍人の予想通り焼魚の匂いが辿れるようになっていくと、ふと彼は背負った少女が前のめりになるのを感じた。日向の家にたどり着いたのである。だが軍人はなかなか下そうとしなかった。軍人は、人のあるべきところをとっくに越えた者である。人の何倍も視力が良く、鼻も利く体質であったのだ。故に、"何か"を見てしまった。おそらくそれが、彼女にとって大きな悲しみと絶望を与えるものなのであろうことは容易に想像できた。軍人にとって、少女は契約の相手でしか無いはずだった。彼女が泣こうが喚こうが、自分には関係無いのだと頭では分かっていても、どうにもそれを見せる気にはならなかった。黒く焼け焦げた、三名の人間。彼女の家族であろう人間達の残骸は、物を言わない。物言わぬそれらは、倒れた家屋の屋根の下に敷かれ、沈黙している。両親を庇うようにして、一人の男の死体が二人分の、中年の男女の死体に覆い被さっている。それが日向の兄だということを、軍人は痛いほどに理解した。
自身も同じ目に遭ったら、同じ"兄"として、そうしたから。
「下ろして、いただけませんか。もう大丈夫です」
軍人がなかなか日向を下そうとしないのに対し、日向は焦ったように声を上げる。しかし、それに対して彼は、しばしの沈黙の後にこう言った。
「何を見ても?」
日向はそれに、全てを察したようだった。察して、涙を堪えるかのような、悲痛な震えた声で軍人に返答した。
「……はい――はい。大丈夫です」
彼は少女のその言葉を聞くと、何も言わずに膝をついて、下ろしてやる。
日向は原型を留めていない家屋に手を伸ばしたが、その炎がまだ生きているために手を引っ込めた。自分の帰る家だったはずの場所が、瓦礫と木屑の山となって、今も尚焼かれている。彼女の目の前には、その向こうには、自分が愛した家族だったものがある。だが、彼女はもう、何もできない。大好きだった兄の燃え滓と、憧れていた両親の残骸が、そこで何があったかを明白に示している。その全てを悟った日向は、膝から崩れ落ちて嗚咽を漏らした。
「あ、 ぁあ ああ――アレ あれ…… うう アアア……」
泣きじゃくる日向の頭を、軍人は何を思ったか、そっと撫でてやる。そんな彼に、日向がやり場のない怒りを抱えて、子供のように泣きついてくるのにも黙ったまま、軍人は胸を貸してやっていた。日向にはそうすることしかできなかった。ただ我儘な子供が癇癪を起こしたように泣き散らし、目の前の軍服を握り締め、縋ることしかできない。それ以外にできることなど想像もつかない、と言った様子である。
少女の涙は、そのうち自身の無力さを嘆き、敵国を怨むものへと変わっていった。軍人の、自身を宥めてくる大きく優しい手に、自分の家族を奪った大元は戦争であり、その火種を齎したのは敵国であると考えるようになった。それは一種の現実逃避であったが、同時に、打ち砕かれる寸前となっていた彼女の心を建て直すための、重要な土台となっていたのだ。以来、彼女もまたこの目の前の軍人のように、帝国の守護を第一とした帝国主義者へと成っていった。国のために戦うことを善行だと考えるようになったのだが、軍人は、国のために生きて帰ることこそが真の誉だというので、彼と同じように、国のために死ぬことだけは無いようにと、今日に至るまで生きてきたのである。
「あの時胸を貸してくれたから、私、私のままでいられているのかもしれません」
と、日向は心中で呟く。彼女の目に映る閣下という男は、戦争を悦び、帝國を望むだけの常軌を逸した怪物ではない。自身という哀れな少女の身と心を救ってくれた、尊大ではあるが、温かいお偉いさんのままだ。それは今も変わらない。どれほど彼が怪物として畏れられようと、日向にとっての閣下は、あの夜、自分を背負ってくれた男のままなのだ。彼がいなければ、あの空が焦げついた夜の果てで、死んでいた。彼がいなければ、仮にあの夜生きて家に戻れたとしても、茫然自失となり、その心を壊して、糞の役にも立たぬ生き人形と化していたに違いないと、日向は確信している。


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