それは遅咲きの
- 3月6日
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更新日:6 日前
昭和二十一年のことだ。その日は穏やかな日だった。中目黒の桜並木では、空には見渡す限り青が広がり、緩やかな風が吹いては、散った桜の花弁が青の中を浮かんで流れていく。晩春の木漏れ日は暖かく、往来を行く人々の肌を眩く照らし、その相貌を不確かなものにしていた。
「閣下、閣下」
「馬鹿者、人前で頻繁に呼ぶな。目立つだろうが」
「すみません。でも、あの。桜が咲いています」
「見ればわかる」
「そうじゃなくってエ。珍しくありませんか。もうすぐ夏なのに」
ね。と袖を引っ張ってくる日向の無邪気な仕草に、閣下は一つ、小さくため息を吐いた。彼は、この少女にこうして袖を引っ張られると、どうも毒気を抜かれるような気がしてならないのである。張り詰めた気が一気に緩み、一人だけ周囲に警戒しているのが馬鹿馬鹿しくなるほど、少女はこの蒼穹の下では能天気に笑い、暢気に乙女をやってのけてみせる。ただ一つ閣下にとって問題だったのは、それが存外不快というわけでもないことだった。寧ろ、気が休まってしまうから危うかった。――
(己は、この娘の養育者である前に、帝國の兵器である。兵器が、このように無警戒であって良いのだろうか。否、良いわけがない。万が一、アメ公が大々的にこの地を侵し始めたら。万が一、露助が攻め入ってきたら、どうする。アメ公、露助だけではない。脅威など腐るほど在る。殊に、羽留子は愛くるしい少女である。目を離せば、忽ち不埒者に拐われ、身売りに飛ばされることだってあるのかも知れない――国だけではない、己は、羽留子も守らねばならぬのだ。しかし、だというのに、何故己はこのように落ち着き払っているのか。羽留子の暢気に充てられているのか。だとしたら、己は兵器として不良品である上に、養育者としても半端者でしかない。守るべきものを守り切る覚悟が出来ていない。そんな者が、おいそれと存在していることはおろか、あまつさえ自分自身であるなど、己は許せん。何のために死に損なっているというのだ。そも、己がどうして羽留子を拾ったか、忘れてはならぬのに、己は段々とそれを疎かにしている。己はあの日、駒を探して業火の中を闊歩していたはずだ。都合の良かったのが、羽留子だった。その程度の存在だったのだ。自身の思う通りに動き、意のままに殺戮する都合の良い駒が欲しかったのだ。そうなるように育てなくてはならん、そのはずだったのだ。それが、どうだ。己は今、駒とするべきこの目の前の小娘を、実の娘や妹のように、寵愛している。羽留子が、駒と成り下がり、敵を殺戮し、戦地へ向かうことさえも忌避している。己の所作に関与する羽留子の言動、表情を気にかけて、強く後悔したり、頭を悩ませることさえある。……)
閣下がそう考え込んでいることなど知らず、その眼前で日向はただ笑い、あれを見よ、これを見よと蝶やら花やらを指差して見せた。閣下にとっては、そんなものよりも気にしなくてはならないものなど何千何万とあるのだが、それでも日向は無邪気に彼の袖を引く。彼が、自分の一挙手一投足に対する厭悪を持ち合わせていないであろうことに信頼し切った素振りで、自身に残るあどけなさを惜しげも無く曝け出している。閣下はそれを見抜いては、暖かい陽だまりのような何かが胸の辺りで燻るような気持ちになった。
「おい、あまり離れるな。花に見蕩れるのは良いが、人拐いに連れていかれては敵わん。この國に今、軍人はいないことになっている。危険な状態にある」
「ひっ。そ、そうですね」
「隣にいろ。絶対離れるな」
「はあい」
閣下の一言で、日向は目紛しく顔色を変えてみせる。すごすごと彼の隣に戻り、控えめに彼の袖口を握る姿は、親に叱られた娘のようですらあった。閣下はそんな日向を一瞥し、微かな罪悪感のようなものがちくりと胸の真ん中を刺してくるような感覚を無視しながら歩いた。
目的は、特段何ということもない。ただの散歩である。軍が解体されながらも、GHQには与太話として隠し通された自分たちが今できることは、『愛國者』の再来を待つことだけだった。閣下はその間も腕が鈍らないように訓練を行うことを定めていたのだが、業を煮やした兵達が口を揃えて閣下に休むよう勧告してきたものだから、彼は渋々養女たる日向を連れて地下深くから出ることにしたのである。こんな化物に休暇など、という閣下の小さな愚痴を聞き逃さなかった日向が、子供ながらに彼を諌めるのを聞き入れながら、薄暗い『帝國陸軍第十三号坑道』の中を歩いた。そして、昇降機を使って久方ぶりに出た娑婆の空気の透き通りように、二人は思わず戦争が終わったことを痛感せざるを得ず、沈黙したのであった。
「こんなに良いお天気だと、毎日お外に出たくなりますね」
「それも悪くないが、我々にはこの國を守るという使命がある」
「一ヶ月に一回だけは?」
「……考えておいてやる」
「やったあ。あ、閣下、橋がありますよ、橋が」
「はしゃぐな、羽留子」
小さく跳ねて見せる目の前の少女に、閣下は鋭く返しながらも袖を引っ張られるまま、その方向へついていく。人通りの多い長い商店街の途中を抜けて、赤い欄干のある小さな橋が架かった小道が、桜の下で縮こまるようにして在った。橋の下に流れる細い川は、桜の花びらで埋もれており、魚も虫もいるのかいないのかはっきりしないほどである。日向は、箸が転んでも面白い年頃なのであろう、欄干に手をついて寄りかかりながら、そんな川の様子にも楽しげに笑う。閣下はそんな日向を見下ろしているだけだった。だが、その見下ろすだけという行為は退屈でも面倒でもなかった。寧ろ彼は、無意識のうちにずっとその行為を続けていたいという欲求を抱いてしまっていた。気付いた頃にはもう遅く、その欲求に対する惨めなまでの自責めいた葛藤が始まっていたのだ。しかし、今度はそんな葛藤に思考を囚われるようなことは起きなかった。日向が、閣下の方を振り向いていたからだ。満天の桜の幕の下で、時折その花弁にくすぐられるようにしながらも、うっすらと弧を描いた目元に、赤褐色の澄んだ瞳が、閣下だけを見ている。それだけではなかったから、彼は心臓に触れられたかのような思いがした。養女であるその少女が彼にふとした時に向ける視線は、残酷なまでに無垢ではなく、娘や妹のそれを超えた色を秘めている。閣下はそれに気付いていた。気付いていて、それを向けられるたびにやんわりと否定し、避けるのがいつものことだ。
「閣下。桜より、貴方の方が綺麗です」
視界も、鼻腔さえも桜に占められた空間の中、少女の口から、そんな言葉が紡がれる。閣下はそれを聞くなり、ふ、と弄するような笑みを零して返した。彼はその言葉に込められた意味も全て理解した上で、一刀両断するわけでもなく、のらりくらりと躱したのだった。
「お前にしては笑える冗談だ」
「なっ。もう! 冗談じゃあないですってば!」
「冗談じゃあないなら、眼医者に連れて行かねばならんな。どうする? 羽留子」
「意地悪……」
「なんとでも言え、マセガキ。置いていくぞ」
「子供扱いして! 私、もう十六なんですけれど!」
ねえってば、と袖口を引っ張る日向を連れ、閣下は赤い欄干の橋を後にする。桜で埋もれた小川の水面は、少しだけ揺れた気がした。彼はそれを見遣ることもせず、自分の袖口を握る少女の手を、雑作も無く握ってやった。すると、日向は一拍黙り込んだかと思えば、閣下の口角を上げさせる程には滑稽に、顔を耳まで赤く染め、素っ頓狂な声をあげて、それを振り解いた。
「わあッ!」
「そら、見たことか。だからお前はマセガキなんだ。十六の、男慣れしていない、へたれの」
「い、今のは……だってッ。ずるいです」
「ずるいものか。お前は、きっと一生そうだ。だがそれでいい。扱いやすいからな」
閣下は日向を鼻で笑い、いつものようにしていろと言わんばかりに手を差し出す。その所作がいかにも、聞き分けの無い子供にするようなものだったので、日向は途端に不機嫌を露わに頬を膨らませて、差し出されたその大きな手の中指と薬指を握ってみせた。幾らか得意げにふんぞり返ったその様子に、閣下はやはり彼女はまだ子供だと内心毒付く。それに気付いているのかいないのか、日向は閣下の表情を見るなり、唇を尖らせて言った。その声色はいじけた子供のようなもので、また本人もそれを自覚しているのか、言い終わる頃にはうっすらと頬を赤らめ、恥じらいにその心を支配されているようですらあった。
「きっと、閣下を困らせるような、大人の女の人になってみせます」
「……そうか。それは楽しみだ」
情けとも言うべきか。羞恥で頭がいっぱいになっているであろう彼女の表情を窺わず、閣下は軽く日向の小さな手を握り返して歩いていく。その歩調はゆっくりとしていて、日向は下唇を噛みながら、俯きがちに彼について歩くことしかできなかった。


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