第1話 陽を望まずして
- 旧川 禅

- 2025年11月14日
- 読了時間: 18分
更新日:2025年12月21日
飛行船が飛び、広告気球が青空の下に浮かぶ。大型ビジョンが設置された日本の各大都市では、一日中同じような映像やニュースが流されている。見出しはどれもこうだった。『第百二十代内閣総理大臣若山正武 所信表明演説公開』――最近就任したばかりの、日本の新総理大臣・若山正武による所信表明演説が、民衆に向けて公開されたことが巷を賑わせている。国民にとって、そのようなことは特段珍しいことではなかった。“適切な情報”は、特に何の造作もなく国民の耳に入ってくるのだから。総理の所信表明演説も例外ではなく、国民にとっては知るに値する“適切な情報”なのだ。
そんな当たり前のことが、何故これほどまでに国民の間で祝福され、大きく銘打って宣伝されているのか。その答えは、若山総理が右派政党『国粋讃美党』の総裁であったから、に尽きる。
この国では実に五十年以上もの間、改革を望み旧秩序を軽んじる左派政党『憲政優民党』が政権を握ってきた。その結果、国民は悪政の下、長きに渡って五里霧中を歩まされ続けてきたのである。外国からの輸入に頼り切ることで生産性は低迷した上、『諸外国協働宣言』により土地の売買が加速し、国内では移民に仕事を奪われて就業難に喘ぐ人々が現れ、国民の間には貧富を背景とした階級社会が築かれるどころか、挙句の果てには不正入国者が溢れ返り、日本全体の治安が悪化する事態にまで陥った。
加えて、児童や青少年の教育に悪影響を及ぼすとされたものを、その視界から悉くシャットアウトするべく制定された『健康教育推進情報法』や、国民の精神衛生保護のために定められた『懇篤言論法』などをはじめとする『クリーンビジョン』政策の成立により、国民に対する実質的な情報規制と言論規制が為され、あろうことか国内外で歴史上に起きた戦争や紛争に関する情報、政府や軍の過去の過ちの真実までもが国民の目に届かなくなってしまったのだ。
この杜撰で愚かな、隠蔽体質とすら思えるやりたい放題な悪政の数々から救いを求める民衆が目をつけたのが、『憲政優民党』とは真逆のマニフェストを掲げていた『国粋讃美党』であった。中でも若山はたびたび『強い日本』を主張し、小国でありながらも如何なる国からの侵略も跳ね除け、他国に頼らずして安定した生産を継続できる強い国を目指すためならば自分たちの身を削る事も厭わないという確固たる愛国精神を掲げていたことから、殊更に民衆からの支持を得ることが容易かったのである。
『私は、この日本という国を愛しております。閣僚の中には、こう言う者も少なくはありません。「私たちの日本が変わってしまった」「愛すべき日本からかけ離れている」と。しかし、私はそうは思わない。私はこう考えておるのです。我が祖国は、日本は長く眠っていたのだと。ならば、今がその目覚めの時であると。目下、日本は無防備な状態にあります。アメリカが完成させた特別国際平和維持装置「ネメシス」は、確かにこの世界で戦争を起こすことができる兵器の数々を大きなただの鉄の塊へと変え、誰も戦争を始められなくなりました。しかし、兵器がなくても戦争を行えるのが人間というものです。アメリカに頼るだけではいけない。私は今、無防備な状態にあるこの国を、そして国民の皆さんを守るためなら、自分たちの如何なる犠牲も辞さない気でいる。手始めに、私は更なる国際平和の維持を目的とし、「国家特別防衛部隊」の設置を約束いたします。この「国家特別防衛部隊」は、マニフェストに掲げております通り地域統制と警察権の強化のみならず、我が国の領土を不当に占拠する行為をはじめとした――』
若山の所信表明演説の内容は、彼が本気でこの国を愛し、そして民を守ろうとしていることを国民に届けるには十分過ぎた内容であった。一言一句はっきりと力を込めて発言し、原稿に目を落とす事もなく演説を終えた彼を待っていたのは、大喝采の嵐であったのだから。
しかしながら、首相官邸・総理執務室にて。白を基調とした清潔感のある内装に、格式高い濃い色のウォルナットで組まれた家具が美しいコントラストを生む高級な室内。その中にいながらも、若山はまるで賭けに負け一文無しになった成り上がり者のように、その恰幅の良い身を情けなく丸め、震えながら、自分の選択が間違いだったのではないかと考えていた。否、考えざるを得ない状況にあった。追い込まれてしまっている、という状態であった。顔面蒼白、冷や汗を滝のように流しながら、大評判の所信表明演説の際の雄弁も鳴りを潜めたかのように、汗ばみ震える手で眼鏡を何度も掛け直すことしかできないでいる。彼の座っている革張りの椅子は彼の汗で湿り、座り直すたびに皮とスーツ生地が擦れる音がギチギチと不快な音を立て、汗で濡れた手で掴む“国内工作員 処分ノ報”と書かれた紙はふやけ、今にも破れそうになっている。
そんな若山の前には、恐ろしい者達がいた。自身の執務机の前に行儀よく立っている、旧日本陸軍軍装を身につけた、六人の男性と一人の少女。ただの奇特な歌劇団であれば良かったのだが、それにしては彼らの身に纏う空気は、あまりにも常軌を逸していた。軍人そのものに見えていながらそうではなく、殺し屋に見えていながらそうではなく、人間に見えていながら人間ではない――矛盾に満ちた、隠しきれぬ殺意と無機質な闘争心を目に秘めた化物たち。警備の目にすら留まらずに、総理執務室に当然のように入ってきた七人組。その中でも一等威圧的な陸軍将校の格好をした男が、若山に報告書を突きつけた張本人だった。まるで地獄の裁判官のような鋭利な眼差し、そして、たとえ自分が椅子から立ちあがっても、頭の真上から凶器でも突きつけられているかのような重圧を感じるほどには背丈の高い彼に、若山は冷や汗を流しながら言葉を紡ぐ。
「機動殲滅部隊――『旭』……? ど……どういうことだ、一体なんだ、その、君たちは。警備の者は、ど、どうした。 どう……やって、ここに来た?」
震える唇で、ようやく発言できた若山が発せたのは、そのような内容だけであった。それに対して間髪入れずに、彼は冷たく硬質な、厳かな声で応える。
「『下』から来た。我々は常に『下』におります。そこで生まれ、そこで育ちました。この國の地の深く深く、深き場所に我々の住処がある。ご存じでしょう、『帝國陸軍第十三号坑道』――そこは、この都のどこへでも行けるようになっている」
「……ッ……馬鹿な……馬鹿だ、馬鹿げている! それは都市伝説のはずだ――そんなものが実在して良いわけがない!」
男の鋭い眼光に怯む事もなく、若山は弱々しく吠える。それもそのはずだった。男の言う『帝國陸軍第十三号坑道』というものは、前政権の『クリーンビジョン』政策が成される以前に民間の間で流行っていた都市伝説で語られるものや、かつて自分が『愛國者』――則ち帝国主義者たる父から聞いていた、御伽話のような大日本帝国の伝承程度のものでしかなかったのだ。その程度の代物の実在性を示したのが紛れも無い、目の前に立つあまりに異質な存在である“彼ら”だったからこそ、若山は疑うことができなかった。故に出来ることは、ただ自分の見聞を盲信して相手の言を否定し、狼狽える程度のことのみだった。そんな彼を、『旭』の隊員たちが嘲笑う。若山の、必死の抵抗を見抜いて。
「我々はそういう部隊であります。貴方の御父上殿の代、御祖父上殿の代、御曽祖父上、そしてその前の代からずっと」
嘲笑混じりに返す威圧的な男に、若山は相も変わらず震える唇で応える。
「……そんな……、……いや、……わかった、君たちが、その。そういうモノだということは。我々だけが――『愛國者』だけが知り得ていなくてはならないモノだということは。政界に入って、そういうモノがわんさかあることは嫌というほどにわからされた……! しかし、しかし、だ! 一体、なぜこの……このような、ことをした! これが本当なら、どう責任を取るつもりだ!」
震える手で持つ“報告書”で執務机を叩き、今にも抜けそうな腰を無理くりに上げて立ち上がると、若山は男に詰め寄り詰問しようとする。その報告書には、国内に潜んでいた工作員と思われる外国人を一夜のうちに何十人も殺したという冗談のような内容と、その凶行に及ぶまでの過程とされる、ターゲットとなった外国人が工作員であることの根拠や調査内容が事細かに記載されていたのである。だが若山は再び選択を誤った。『いくら根拠や証拠があったとしても、即刻殺害して良い理由にはならない』という常識を武器に、彼に責任を問おうとしたのが間違いだった。彼には、現代の常識などというものはなかった。血に滾り、殺意と闘争心で満ちた兵器そのもののような男である彼に、そんなものが通じると考える方が間違いだったのだ。
「“号令”をかけたのは貴方だ。故に我々は責務を果たしたまで。貴方の『敵意』を以て、我々は刀となって『敵國』に報いた。支那でも露助でもアメ公でもブリ公でも関係ない。國家元首たる貴方が敵意を向けた『敵國』で、この國を侵す『敵國』だからこそ、我々は報いたのだ」
「号令……? そのようなものは私は…… ま、まさか……!」
男の“号令”という言葉を聞いた瞬間、若山は身に覚えのない言葉であると感じていた。だが、彼の言を全て聞いたことで、ぼんやりと浮かんだ考えが確信に変わる。若山は彼の言から、この旧日本陸軍将校の姿をした、時代錯誤な差別用語をつらつらと並べてみせる男が通常の思考回路を持ち合わせているはずがないと踏んだのだ。彼の感覚に、『愛國者』としての共感性を重ねて考えたならば、男の言う“号令”とやらが何なのかの解を得ることは容易かった。そして、同時に若山は更なる後悔の渦に巻き込まれた。
「“号令”! ……わ 私が話した あの所信表明演説で言った、アレか? 『国家特別防衛部隊』――! クソ……! なんてことだ、私は――そうだ、いやそうか、私のせいか……! 私のせいだ……! 全て、全て……ッ! 」
若山は頭を抱え、もはやこびりついて離れぬ後悔に支配される苦しみに悶えて膝をつく。しかし、人の心など無いような、目の前の兵器然とした非情な男はその苦しみを推し量って慰める事も謝罪する事もなく、呆れたように淡々と言い放つ。
「通達は以上。現段階で特に指示がなければ、我々は我々の“巣”に帰還する」
若山は目の前の男のその態度に対し、今となっては怒りを抱くことすら出来なかった。不甲斐ない自身に呆れ、踵を返さんとするその男の姿にただ焦燥を抱くほかなかった。『何故』で満たされ、終わらない自責で自らの首を絞めることしかできない若山がその苦しみの連鎖から抜け出すには、この威圧的な恐怖の主たる男に縋る方法以外、見当たらなくなっていたのである。若山は自分に対し『使えぬ雑兵だ、こいつは放っておいてもじきに死ぬ。自分が手を下す必要すらない』とでも思っているかのような、寒気凛冽たる雪嶺の風を宿したが如く冷酷な目を向けてくる相手に、必死になって楯突いていた。そして、愚かなことに隙さえあれば責任の所在を問うつもりですらいた。若山はあわよくば、彼に責任をとってもらいたかったのだ。彼にこそ、罪悪感すら持ったことがないような人でなしにこそ被るに相応しい重罪であり、自分のような腰抜けが被るべきではないと考えてしまった。自らの恥ずべき汚点を盾にしたのだ。それほど若山は追い詰められ、逃避したくてたまらない状況ですらある。人を殺した事もなければ、殺せと命じた事すらもなかったような男が若山だ。誰よりも高潔に国民のことを想え、自らを顧みない男が、若山のはずだった。けれども、そんな彼がこうなってしまうのは、過度な精神的負荷に対する防衛機制を備えた人間という生き物の性質としては全くもって必然的なことでさえあった。
「ま、待ちたまえ。わ 私のあの発言の意図は……攻撃を目的としたわけではない。他国に対する、牽制としての一言だったのだ。確かにアメリカの作った『ネメシス』は、戦争は防げるだろう。だが、色々と難癖をつけて日本の領土を奪おうとしている国は未だに尽きない。だから、彼奴らに対する牽制でしかなかった。
それによく考えてみろ、日本だって、他国との連携や外交事情だってある……そう簡単に、敵対行為を……まして、外国人を殺害するなど、出来るわけないじゃないか。
その辺の倫理観や国家観はどうなっているんだ……! そ、そもそも! 『旭』とはなんなのか私は……詳しくは知らない! おそらく父も祖父も、知らないだろう。大体、たった一夜で何十人も人間を殺したなど……わからないことが多すぎるんだ。君たちは一体、なんなんだ? 人なのか? 化け物なのか!」
掠れた、憔悴しきった声で自身の弁明を行いながら、若山は問う。しかし、その国家元首でありながらもまるで度胸も覚悟もない、今にも尻餅つきそうになりながら立っている若山の腑抜けた表情が、彼の目の前に立つ恐ろしい男の逆鱗に触れた。
「チッ……貴様!」
堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに、若山の目の前の男は声を荒げ、それまでの礼儀正しい、規律の鬼といった仕草とは打って変わり、粗暴に、力のままに若山の胸ぐらを掴んで怒鳴りつける。若山はそれだけで心臓が止まりそうになった。国会討論や、先日の所信表明演説などでは当たり前のように飛ばされていた野次の数々。それらのお陰もあってか汚い罵詈雑言には慣れていたはずなのに、さながら初めて親に叱責された子供のような、恥ずかしいような恐ろしいような、自分がまるでここにいてはいけない存在であるかのような心細い気持ちになってしまい、気を抜けば失禁手前といったところまで追いやられていたのだ。それほど若山はこの、目の前にいる、人の皮を被った化け物が恐ろしく、あたかも自身を裁く地獄の主そのものであるかのように感じた。刀の切先のように鋭い眼光を持つ四白眼に睨まれ、深く刻まれた眉間の皺に、顳顬に立つ青筋、そして覗き見える口許の肉食獣のような鋭い牙を見れば、自分はもしかするとすでに死んでおり、今は死後の世界にいるのではとさえ思う。それほどのものを前にすれば、最早できることは命乞いのみである。
「ひぃいっ!」
「国家元首である以前に! 大和男子たる者、この程度のことで女のように狼狽え喚くとは如何なものか!」
「す、すまない! 無礼を働いてしまった! 私が悪かった! 命だけは!」
「黙って見ておればなよなよしくさって! 『愛國者』の面汚しが! そこに立て! 修正してやる!」
「ッま、待て……! 話せばわかる!」
その外見に違わず、男は帝陸軍人らしく体罰を加えようとする。呆れたように若山を突き飛ばすなり、すぐに自身の足で立つよう命じる無茶苦茶な行為。若山はこの短時間で起きた凡ゆる理不尽の数々に、すっかり腰が抜けたようになって、「待て」「話せばわかる」「命だけは」と、両手を前方に突き出して自らを庇うようにしながら、繰り返し譫言を呟くことしかできなくなった。
それを見かねたのか、それまで黙って若山と男のやりとりを見ていた、男の仲間6人組の紅一点であった女性が前に出て、二人の間に割って入る。
「か、閣下。一寸お待ちください。この方はこのようでも、最後の『愛國者』なのです――しかも、ようやっと総理になれた。それを失うのも勿体無いし、そもそもなったばかりなのですから、狼狽えるのも流石に仕方ないと……おもいませんか……?」
「……腑抜け同士気が合うとでも思ったか? 日向。まあ良い――失礼、若山殿」
死を何とも思わないような、恐怖心と共感に欠けた、人間味の感じられない微笑みを携えた少女――日向と呼ばれたその者は、詰られているというのに相も変わらずそれを浮かべたまま、すっかり怯えきった若山に手を差し伸べる。彼女の計らいもあってか怒りの鎮まった男は、部下の独断行動をそれ以上詰る事も断じる事もせず、淡々と若山に対し無礼を詫びるだけであった。
「い、いや……詫びるのはこちらの方だ。国家元首たり得ない態度で失礼した。仮にも君たちを統率する立場だというのに。しかし君たちの国家観というか……ものの見方については、わかったよ。昔のままというわけか。であればこの事態となっているのも、頷ける。」
それまで不気味に微笑んでいた日向がふと見せた、人懐こそうな笑顔を垣間見て、やや驚きつつも落ち着きを取り戻した若山は、彼女の手を借りながらも立ち上がり、改めて目の前の男に問う。日向はそんな若山の様子に再び化物のような笑顔を顔に貼り付け直すと、元いた位置――閣下とのみ呼ばれる、変わらず威圧的な男の後ろに戻っていった。またしても味方のいなくなった心細さに引き戻されながらも、『国家元首』たる者としての意識を自身に植え付けた若山は、最早先ほどの、怖気付いた、権力と恰幅だけの中年男性では無くなっている。閣下に対してもそれは明白であったのか、彼は今度は一片の呆れも嘲笑も見せず、若山に対し誠実に向き合っていた。
「――一つだけ、教えて欲しい。君たちは……本当に、人間ではないのか?」
若山の問いに、閣下は静かに応える。それは自身のルーツであり、また同時に自身が所属する帝國の犯した罪であったが故に。
「二十世紀初頭――帝陸は、敵性の迅速排除及び人員欠如対策を目的として、強く丈夫な人間を造る計画に熱中しておりました。その成果こそが、我々『死喰兵』であります。我々は、他者の死を喰らい生きる者。同胞であろうと敵方であろうと構わず、その死骸を喰えば細胞が勝手に死因から学習し、肉体を進化させていくことが出来るのです。
私の部下で例えるなら――
『眼』の進化。盲で死んだ者を食ったから、千里眼を得た。
『耳』の進化。唖で死んだものを食ったから、蝙蝠の耳を得た。
『鼻』の進化。獣に遭って死んだ者を食ったから、畜生の鼻を得た。
『舌』の進化。毒を食って死んだ者を食ったから、猛毒への耐性を得た。
『身』の進化。体が弱くて死んだものを食ったから、鬼神が如き怪力を得た。
そうやって、死によって進化を重ねて出来た化け物が我々なのであります」
“死体を喰う”、“人間を造る計画”。その言葉を聞いた若山は、思わず苦虫を噛み潰したような表情になった。自分たちが心を捧げてきた帝国が、倫理も衛生も人権も無い、残酷で背徳的な行為を兵に対し平気で行わせていたという事実に、改めて反吐が出そうな気分になった。若山は確かに『愛國者』とは名ばかりの帝国主義者ではある。だが、その一方で穏健主義でもあった。今一度帝国となれば良い。しかしそれは民の為でなくては他ならない。故に強き国とならなければならないと、帝国は民の為にあるべきなのだと、本気でそう思っているからだ。だからこそ、帝国が帝国のために民を犠牲にすることを、若山は忌避していたのであった。
「……噂でこそ聞いてはいたが。そんな実験が、本当に行われていたというのか……」
「はい。我々の存在は軍の内部でも機密にされておりました」
閣下はそんな若山の心を知ってか知らずか、淡々と事実だけを述べる。無垢な清潔と高貴な理想に満ちた総理執務室に、生臭い血と汚泥に塗れた事実を、流暢に打ち明けていく。相反する者らが、この空間に邂逅している。若山だけではなく、閣下もそれを感じ取っていた。若山は彼らに対し憐れみを、しかし閣下は彼に対し、野望を抱いている。そんな双方の感情は、沈黙の中で確かに応酬されていた。それは、権力と暴力の無言の“契約”であった。
「ちなみに君は……何が進化している? 何が優れているんだ?」
沈黙を破り、若山が口を開く。若山は、閣下を自らの部下として受け入れるつもりでいた。そして、若山は若山であるからこそ、穏便に、彼と友達になることから始めたいと考えていたのだ。この男は――部下からも閣下と呼ばれるのみである謎めいた男とその部下達は、きっと帝国の犠牲であるという確信が若山にはあった。そして『愛國者』として、少しでも罪滅ぼしをしたいと望んでしまった。彼らを使役するのではなく、彼らと協力したいのだという強い気持ちが若山には芽生えていた。
だが閣下にとって、それは無意味なことである。若山の“詮索”が紛れもない先手であるように見えた閣下は、その意思をせせら笑うように再び事実を打ち明ける。彼はその行為が、若山を自分の都合の良い傀儡にするためには有効な手段だと見抜いていたのだ。若山という“小僧”の憐憫に付け込み、自分たちがこれからやることの全ての責任を持たせ、罪を肩代わりさせるための、悪魔のような謀略でしかなかった。
「――『全て』。ありとあらゆる死骸を食ったものですから」
「ッ……――そう、か……。 と、とりあえず。君たちがどういうものなのかはわかった、わかったところで……そうだな。君たちには悪いが、しばらくの間待機で頼む……二度とこのようなことが起こらんようにな。今回のことは――私の方でどうにかしておく。いいか、とにかく、二度とこのようなことを起こしてはならん。今後厳重注意とするように」
閣下は、まるで自分という存在の怪物性を示すべく、外套の下から両腕を出して広げて見せる。その外套の下には、ただの人間の兵が武装するものとはとても思えない程の大振りの軍刀が二振り下げられ、腰元に十四年式拳銃を一丁下げているのみ。若山はそれを見て、閣下という怪物は自分が戦わずとも、同じく怪物たる部下が全て片付けるのか、はたまたこの程度の軽装だけで事足りるほどの怪物としての戦闘能力を持っているのか――否、持たせられたのかと、彼らの怪物性について慮ることができた。そんな、案の定傲慢で身勝手な罪悪感に浸っているであろう若山の表情に、閣下はほくそ笑む。自分が何を打ち明け、どう思われようと正直どうでもよく、自分たちの野望を叶えるためならば、己さえも駒として扱えるほどの気概を持っているのがこの男なのである。勝手に心を痛めながら、勝手に自分たちを休息が必要なか弱い存在だと思い込み、勝手に謹慎と評して、底知れぬ化け物達に自由行動の時間を与える若山という男が、哀れで可笑しい存在だとすら思えたのだった。
「承知いたしました。では」
「うむ……あ。そういえば、君らの名を――」
閣下が率いる機動殲滅部隊『旭』は、微かな頭痛に眉間を押さえた若山が顔を上げた頃には、既に消えてしまっていた。馴れ合いは不要であると暗に伝えるようなその行動に、若山はやれやれと困ったようにため息を吐く。数分前まで憶えていた、彼らに対する尋常では無い恐怖はいつの間にか消え去り、いつの間にか微かな心強さと、微かな親しみに挿げ替えられていた。それは恐怖からの一種の回避性なのか、若山が閣下という強大な存在に魅了されてしまったからなのかはわからない。
「……夢であってくれれば、いいのだが……はあ」
ただ一つ彼に理解できたのは、『旭』の隊員は紛うこと無く、全員が人間の枠を越えてしまった非人間だということだけである。


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